008 笹塚のシンガーソングライター

昨夜、下北沢のリンキィディンクスタジオで行われたオールナイトのイベント「みんなの戦艦」を見に行った。目当ては股下89で、ライブを見るのは久しぶりなのだけれども、相変わらず凄まじい演奏をしていた。4人全員バラバラの方向を向きながら演奏をしているのに、その内容は極めてソリッドで、溢れんばかりの殺気に拍車がかかっていた。スタッフの方が動画を撮っていたけれど、僕は最前列でクネクネしていたので、映っていたら恥ずかしいなと思う。

「みんなの戦艦」は23時30分オープン、24時スタートの夜通し行われるイベントで、終演予定時刻が股下89の出番はトップバッターだった。最近体力の衰えをとみに感じているので、とても朝まで居られないなと予め判断していた僕は、会場まで自転車で行くことにした。これなら終電がなくなっても帰る事ができる。道を調べてみると、やや遠いけれども決して行けない距離ではなく、行き方自体も中野通りにさえ出てしまえば後はまっすぐ南下していくだけなので、道に迷うという事もない。そう思って僕は、家から40分ほどかけて、下北沢まで向かったのだった。
中野通りに出て、新中野を過ぎ、神田川を越え、さらに道を進むと京王線にぶつかる。ここを過ぎればもう世田谷区なので、会場まであと少しだ。
甲州街道の横断歩道で信号待ちをしている時、ふと上方を見上げれば「笹塚」の文字があった。そうかここが笹塚なのか、隣りが幡ヶ谷でもう一つ先が初台という事は、電気グルーヴが結成したデニーズや、卓球や瀧が昔住んでいたところもこの辺りなのかな等と思っているうちに、なにやら「笹塚」という単語から古い記憶が蘇りそうな予感がした。けれどその時は何も思い出せず、再び自転車を漕ぎ下北沢へ無事到着し、ライブを見て、早くも体力に限界が見えてきたので早めに帰宅したのだけれど、再び甲州街道を渡ろうとした時、僕は突然昔の事を思い出した。
「そうだ、笹塚と言ったら、あの恐怖のミュージシャンが住んでいる街じゃないか」

遡る事10年前、あれは2003年の秋口だった。その頃僕は高校1年生で、まあ何度も何度もこの日記に書いてある事だけど、高校に入学した辺りから僕の性格はとんでもない速度で暗くなり、学校に友達はおらず、先輩に薦められて入部した吹奏楽部も3ヶ月であっさり辞め、夏休みが終わって学校が始まったはずなのに「ぼくのなつやすみ」は終わらず、部屋に引きこもって「山田花子 自殺直前日記」を読んで涙するといった、地獄のような日々を過ごしている真っ最中だった。
そんなある日の事だった。どういう経緯でそうなったかはよく覚えていないが、ある時突然「そうだ、曼荼羅に行こう」と思い立ったのだった。曼荼羅とは1974年に吉祥寺にオープンした老舗のライブハウスで、たまがメジャーデビュー前からホームとして活動していた場所である。
確か僕はあの頃、学校にも行かず自室に篭って本を読んだり音楽を聴いたりばかりしていたのだけれど、そんな生活を延々としていたらさすがに頭の調子が狂い始めて「このままでは気が狂って孤独死する!」と怯えていたのだった。そのためにどこか外部の世界に触れようと思っていたのだけれども、何しろ埼玉の片田舎に住んでいる右も左も分からないしょぼくれた高校生だったので、漠然と外の世界へ!と思ってはいたけれど、その外の世界とはどこなのか、という事が全くわからない状態であった。
そんな時思い出したのが吉祥寺曼荼羅の事である。たまがずっとライブをやっていた場所なのだから、きっとそこに行けば何か面白いライブとか、おかしな人とか、表現衝動のカタマリみたいな人に会えるはずだ!そう思って僕は早速曼荼羅のサイトを開き、スケジュールを確認したのであった。
しかしそこで問題が起こった。どのライブに行っていいのかわからない。
2003年という時代は当然YouTubeなどという便利なものはなく、一般のネット回線事情もようやくADSLが広まり始めたという頃だったので、動画はおろか音源ファイルさえ公開するのを躊躇われていた頃だった(確か2000年頃に買ったホームページの作り方という本には「写真は重くて迷惑なので使わないようにしましょう」という事が書いてあった)。そもそもあの頃はまだアマチュア音楽界隈にネットが完全に浸透しておらず、バンドとか弾き語りをやっていて自分のホームページを持っている人というのはまだまだ少なかった。なのでスケジュール欄に載ってる名前で検索をかけても、ほとんど情報が出てこず、誰がどんな音楽をやっているのかもわからず、またチケット代も2000円くらいしたので、貧乏な高校生には敷居が高かった。知らない人のライブを見に行って、それがハズレだったらどうしよう、というわけである。
そういった理由で尻込みをしていたのだけれど、スケジュール表を上から下へと見ていると、ある日の予定に「飛び入りライブ」と書かれている。説明もついていて、どうやらこの日は2杯分のドリンク代さえ払えば誰でもステージに立つことができ、一般の観覧者はドリンク1杯で入場する事ができる、というシステムであるらしい。持ち時間は1人10分で、17時から22時まで開催されるという話だ。
僕はそれを見て「これだ!」と思った。これなら1回で色々な人のライブが見られるので、きっと中には面白い人がいるはずで、例えハズレがあってもあまり大きなダメージを負わないだろうというのと、もうひとつは入場料が安いのでお金のない僕でも気軽に見に行ける。そしてスケジュールを見たら、今月はもう数日後に飛び入りライブが開催される。これを逃す手はない、と思い、僕はライブ当日、埼玉から吉祥寺まで向かったのだった。
しかし先述したように、当時の僕は埼玉県の、急行が止まらない私鉄沿線の農村を開拓してできたベッドタウンに住む田舎者の高校生であって、埼玉の植民地である池袋くらいなら行った事はあるけれど、山手線以外のJRにはほぼ乗った事がないといった具合だった。そして吉祥寺は思っていたより遠い。土地勘もないのでどこに何があるのかわからない。心細い。淋しい。怖い。といったマイナスワードが次々と飛び出してきて、僕の心をしぼませた。
そこでどうしたかというと、僕はその頃吉祥寺の高校に通っていたMという友人を誘う事にした。高校内では全く友達が居ない僕だけれど、学校の外には辛うじて何名か友人がおり、Mもそのうちの1人だった。彼とは通っていた英語塾で知り合い仲良くなったのだけど、しかし僕も彼も全く成績が伸びず、後に2人揃って塾を辞め、彼はその後昭島の方へ引っ越して行きやや疎遠になっていたのであった。しかし高校に入った辺りからまた連絡を取るようになり、今回も「吉祥寺にライブを見に行かない?」と誘うと、彼は二つ返事でOKをくれた。
そうして僕はMと吉祥寺駅で待ち合わせをして、曼荼羅へと向かった。ライブハウスなどという所には行った事がなく、派手とかうるさいとかそういった漠然としたイメージしか持っていなかった。なので、最初は曼荼羅の入り口である狭く細い階段を見落としていて、一体曼荼羅はどこにあるんだと2人で吉祥寺の街をウロウロさまよい歩いていたのであった。
地図を頼りにして何とか曼荼羅を探し当て、まずその地味な入り口に驚き、中に入ってその狭さにまた驚いた。今にして思うとライブハウスとしてはまあ狭い部類に入るが、別に特別狭いというわけではないのだけれど、あの頃はライブと言ったらクラブチッタとか紀伊国屋ホールとか、そういう大きなところでしか見た事がなかったので、まずそこに衝撃を受けた。
少し早く着きすぎてしまったので、椅子に座り、久しぶりに会ったMに近況を聞く。彼は中学生の頃からボーリングをやっていて、いつかはプロになりたいと言っていた。高校に入って地元のボーリング場でアルバイトをしていたのだけれど、そこの店長と折り合いが悪く、まだ始まってもいないのに早くもボーリング人生に暗雲が立ち込めてきた、という話をしていた。僕は僕で高校に入ったら全く友達ができず、1日のうちに声を出す時間が10分くらいしかないとか、おれの教室での地位は黒板消しより低い、あいつは字を消してくれるからね、とか、そんな話に終始して、ついに明るい話題は何一つ出なかった。
吉祥寺まで来てなんでこんな暗い気持ちにならなきゃならんのだ、と思っていると、客席の照明が落ち、ステージに司会進行の方が現れ飛び入りライブが始まった。最初にいくつかの説明をした後、いよいよ1組目の人の登場だ。この聖地、曼荼羅で一体どんな面白いライブが見られるんだろう?
そう思っていると、ステージ上にギターを持った男性が現れた。
「どーも初めまして、笹塚からやって来ました」
と話すと、客席にやや笑いが起こる。Mも「また微妙なところから来たな」と言って笑っている。しかしあの頃の僕にとって笹塚とは聞いた事もない地名で、もはや海外に等しい場所であった。
こっそりとMに尋ねる。
「笹塚ってどこ」
京王線が通ってるとこだよ」
京王線ってどこ走ってるの」
「新宿から高尾まで走ってるよ」
「で、笹塚ってどこなの」
「……とにかく、説明しづらいとこだよ」
彼は説明するのを諦めたらしい。僕もそれで納得した。
そんな事をやっているうちに曲が始まった。アコースティックギターでメジャーコードを軽やかに鳴らす。やけに爽やかな出だしだなと思っていたら歌が始まったのだけれど、その歌詞の内容が「好きだった先輩が卒業しちゃうよ〜」「想いを伝えないといけないけど勇気がないよ〜」というようなもので、僕は思わず顔が曲がった。僕は隣りに座っているMにそっと耳打ちする。
「何この気持ち悪い歌……」
「言うなよ……」
彼もまたうんざりした顔をしていた。
ここに来て僕は、壮大な思い違いをしていた事を知る。いくらたまが頻繁にライブを行っていたライブハウスだからといって、たまのような人が頻繁に現れるという事は決してなく、むしろたまの4名は類まれな才能を持ち合わせていたから大きな注目を集めていたわけであって、たまではない大多数の人達は普通の人で、ライブハウスにはそういった普通の人が出演しているケースが大半を占めているわけだ。今考えれば当たり前の話なのだけれど、あの頃はライブハウスの実状をよく知らず、過剰な期待を抱いていたフシもあった。なのでその背筋も凍る恐怖のシンガーソングライターの演奏が終わった後も、「……まあまだ始まったばかりだし、これから色々な人が出てくるんだよな」と思っていた。
確かに僕の予感は当たった。その後も色々な人が次から次へと出てきた。悪い意味で。
ろれつの回らない口ではっぴいえんどの「春よ来い」を歌うおじさん(間違える度に演奏が止まってやり直す)、ZABADAKの出来損ないみたいな曲をピアノの弾き語りで歌う「妖精ゆかりん」(とんでもない人だったので名前をちゃんと覚えている。音大生とか言ってたけど今は何をしてるんだろう?)、メンバーが居ないからという理由で、ドラムがリズムマシンのヘビメタバンド(演奏がめちゃくちゃで、一番うまいのがリズムマシンという悲惨な状態だった)、などなど、他にもよく覚えていないけれど、まあそんな感じのステージは延々と続き、僕の顎はどんどん外れていった。隣りにいるMも渋い顔をしている。無理やり連れてきて申し訳ない、という思いでいっぱいだった。
しかしそんな中でも何組か面白い人はいた。特に印象に残っているのは、「マッチ売りの少女が燃えにくいマッチを発明して特許を取ったけど、ライターの台頭により業績が伸び悩む」とか「うんこ投げ合戦、うんこをぶつけ合え、けれど最後に勝つのはクソにまみれていない高みの見物を決め込んでいた奴」という、ヘンテコな歌を歌う人だった。強烈過ぎて印象に残っている人と、あまりよく覚えていない人ばかりが出演するイベントの中で、この人の事だけはよく覚えている。
確かこの日は全部で15、6組の人が出演していたと思う。ライブを見終わって会場を出た僕は、「面白い人というのは、これだけたくさんの人がいても、そのうちの1人か2人なんだな」という事を悟ったのであった。

そんな事を突然思い出したのだった。あれからちょうど10年である。あの時ステージに立っていた人は何をしているんだろうと思い調べてみると、笹塚在住の恐怖のシンガーソングライターはまだ活動を続けていて、また当時使っていた芸名から本名に戻していた。最初はここでそのふざけた芸名込みで書こうと思っていたのだけれど、今もやっているとなると余計な軋轢を生みそうなので名前は伏せる。今も笹塚に住んでいるかどうかはわからない。
マッチ売りの少女とかうんこ投げ合戦といった奇抜な歌を歌っていた人は、調べた結果どうやら「一戸康太朗」という方で、こちらも今でも弾き語り活動を行っている。YouTubeに動画も上がっていた。

幸いな事に妖精ゆかりんは検索しても出てこなかったので、ほっと胸を撫で下ろした。あの頃20歳くらいだとして、今三十路である。30歳にもなって妖精を名乗っていたらこんな悲劇はないだろうと思っていたのだけれど、どうやら活動はしていないようなので一安心だ。
最後に、あの時一緒にライブを見に行ったMだが、彼は途中音楽の道に走り、家に遊びに行ったらシンセや機材が大量に置かれていたのだけれど、その後軌道を修正し本来目指していたボーリングの世界に舞い戻り、今年めでたくプロ入りとなった。最近連絡を取っていないから近況はわからないけれど、多分プロボウラーとしてモリモリ活動をしているのだろう。しかしネットに上がっている彼の写真を見たら、あごひげを蓄えゴリラのような顔になっていて驚いた。中学生の頃は背も低く、声変わりも遅かったので、電話だと女の子と話しているような気持ちになったのだけれども。あれから10年。変わらない事は素晴らしいとは思うけれど、見た目の問題という観点で考えると、そりゃ10年も経てば人は変わるよな、どう考えても、という結論に達したのであった。

007 ここがヘンだよ俺以外(ベーシストOさんの話)

先日実家に帰った時に、部屋の本棚に置きっぱなしにしてあった漫画版グミ・チョコレート・パインを読んだ。確か初めて読んだのが中学3年生くらいの頃で、その時はまだ2巻までしか出ていなかったので、小説とは違う話の展開に、この先どうなるんだろうとワクワクしていたものだ(ちなみにこの時はパイン編がギリギリ雑誌での連載が始まったか始まらなかったかの頃だったと記憶している)。
2巻の後半で、主人公である大橋賢三が「山月記」を読むシーンがある。

己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。

ここで賢三は初めて「自分は虎だ」という事に気づき、涙を流すのであるが、果たしてこのシーンを目にした中学3年生の僕はどう思ったか。はっきり言ってよく覚えていないのだが、よく覚えていないという事はつまり、「へえ、そういう事もあるんだな」くらいにしか感じ取らなかったという事なのだと思う。愚かな中学生だった。

10代の記憶はなるべく思い出したくないが、特に10代中盤、つまり中学生から高校を卒業するくらいまでの時期の事は本当に思い出したくない。というより、あまりに嫌すぎて記憶のほとんどが消し飛んでおり、例えば高校3年生の頃はほとんど学校に行かず、毎日川越のツウな古本屋「ほんだらけ」に入り浸って毎日100円の文庫本を買って読んでいたはずなのだが、一体何を読んでいたのかが全く思い出せない。思い出そうとすると謎の偏頭痛に襲われて頭がキリキリと痛み出す。これは僕の記憶力が極端に悪い事も原因だと思うけれど、おそらくあの頃の記憶を、脳が思い出すことを拒絶しているのだと思われる。
10代半ば、僕は本当に愚か者だった。
中学生頃から所謂サブカルチャーの世界に没入し出し、当然周りの同級生とは話が合わず、少しずつ友達は減り、高校に入った頃には完全に話し相手がゼロになっていたのだけれど、むしろ当時の僕はそれを誇らしげに思っていた。
「俺の事を『理解』してくれる奴はこの学校には居ない」
「それは俺の周りが俗世間に流されている愚か者ばかりだからだ」
「俺は『わかってる』から君たちが175Rとかに夢中になってる間にもせっせとディスクユニオンに通っちゃうもんね」
という辺りから始まり、無意味に自意識は肥大し、プライドだけは山のように高くなり、最終的には
「俺以外皆愚民」
「ここがヘンだよ俺以外」
という結論に達していたのだった。書いているうちに胃が痛くなってきたけどまだこの話は続く。
友達が居ないという事はどういう事かというと、学校が終わって放課後の時間がまるまる空くということで、僕はこの時間で古本屋で買った本を読んだり、となり町の中古CD屋で買ったあぶらだこの釣盤を聴いたり、そしてこの頃バイト代を貯めて買ったリッケンバッカーのベースを抱え、汚い6帖の部屋で黙々と練習に励んでいたのだった。そんな生活が3年間も続いた事を改めて考えるとゾッとする。よくあんな環境で生きていけたものだと思う。
こう書くと人によっては「孤立無援の精神を貫き通した筋の通った人だ」といいように解釈してくれるのだけど、実際はそんな事はなくて、それはもう毎日毎日孤独感に襲われて死にそうになり、こんな生活がずっと続くなら俺は死ぬ!とでんぐり返ったり、でも死ぬのは怖いし痛いし、何より今ヤンマガで連載してる「シガテラ」の続きが読めなくなっちゃうしなあ〜、と思い、とりあえずシガテラの連載が終わるまでは生きていこうという結論に軟着陸したのだけれど、つまり何が言いたいのかというと、あの3年間淋しくて淋しくて死にそうだったんだよおれは。
そんな寂しがり屋がどうやって3年間過ごしたかというと、安易な結論だがインターネットを支えにして、無理やり日々を乗り切っていたのであった。
学校ではハイスタ大好きっ子だとか、シャカラビのUKIちゃんかわいい〜女とか、学園祭でブルーハーツコピーバンドをやってる割には休み時間僕の椅子を蹴っ飛ばしてくる全然人に優しくないクラスの人気者とか、そんな奴ばっかりで辟易していたのだけれど、インターネットには僕と同世代で、尚且つ趣味が似通っている人々が沢山いた。そういう人の書いた日記(まだブログなんてものがなかったので、当時はみんなレンタル日記と呼ばれるものを利用していた)を読んだり、BBSに書き込んだりして文字だけではあるが意思の疎通を図り、時にはそこで知り合った方にレアな音源とかビデオ等をダビングさせて頂いたりとか、そういう風にしてどうにかやり過ごしていた。
「世の中には色々な人がいるんだなあ。生きてればこういう人とも会えるのかな」
という事ばかりをあの頃は考えていた。
しかしそれと同時に、僕は「俺は同じ87年生まれの中で一番サブカルチャーに詳しいもんね」などという不遜な事を思っていたのも事実であった。
その頃僕は高校2年生で、埼玉の片田舎に住み、偏差値の高くない公立高校に通い、クラスメイトは愚か者ばかりだ俺は凄いんだこんなもんじゃないと思っていたのだけど、片やその環境を一般化していたフシもあって、つまり「俺の周りは愚民だらけ=87年生まれはクズばかり=でも俺は違うもんね=俺は87年生まれの星」などという完全に破綻しきっている理論を振りかざしていたような気がする。
「俺は色々な音楽を聴いてる。本も読んでる。楽器も弾ける。俺は同世代の中で最もトンガッている。今はまだ何もやってないけど、きっと俺がバンドとか始めたらそれはもう凄い事になっちゃうんだもんね。友達がいないからバンドが組めないけど、きっといつかわかってくれる人がいるはずだ!」
みたいな事を本気で思っていた。恐ろしい話だ。

そんな高校2年生の冬であった。僕はこの頃ゆらゆら帝国が好きで、何度かライブに足を運び、ネット上で知り合った同世代のゆらゆら帝国ファンの方とも仲良くなったりしていた。この年の終わり頃、恵比寿のリキッドルームゆらゆら帝国のワンマンライブが行われ、僕はその時チケットを取り損ねてしょぼくれていたのだけど、前述のゆらゆら帝国ファンの人に(当時この方も高校3年生とかだった気がする)「友達がチケット1枚余ってるって言うから、欲しいようであれば話しておきますよ」という連絡を頂いた。すぐさま僕はお願いしますの連絡をし、チケットを譲って頂ける方のアドレスを教えてもらい、連絡を取ったのだった。
その方はOさんといい、年は僕と同じ17歳で、当時は女子高生だった。
何度かのメールのやりとりをした結果、Oさんはゆらゆら帝国村八分が好きで、またベースもやっており、実際にバンドを組んで既にライブ活動も行っている、という事がわかった。古い音楽にも詳しく(確かSSを薦めてもらったと思う)、僕は同い年でこういう人がいる事に多少なりともショックを受けた。
そして年末のゆらゆら帝国のライブ。リキッドルーム付近で待ち合わせをし、チケットを受け取るためにOさんと待ち合わせをした。一体どんな強烈な人が来るんだろうと思っていたが、いざ会ってみるとOさんは、小柄で可愛らしい普通の女子高生であった。
確かこの時は時間の関係と、あの頃僕は極端な人見知りと対人恐怖症だったのであまり会話ができず、また会場に入ったらあまりの人の多さにすぐ離れ離れになったので、この日はライブを見ただけで家に帰った。最後に名曲「星になれた」が聞けて感動した事を覚えている。
それから年が明け、あれはまだ肌寒い3月頃の事であったか。どういった経緯でかは忘れたけど、僕はOさんの所属しているバンドのライブが行われるという事を知り、電車を乗り継いで会場である赤坂へと向かった。確かこの日はCMディレクター、中島信也氏が主催のイベントで、トリを務める中島氏のバンドのベースを栗コーダーカルテットの栗原正己氏が担当していてびっくりした。
何組かのバンドが出演し、いよいよOさんのバンドの出番である。確かこの日は舞台進行を務めるMCがいて、まずはその人のバンド紹介が始まる。
「このバンドはみんな若くて、まだみんな高校生なんですねえ」
という説明を聞き、僕は驚いた。年上の人に混ざってバンドをやっていると僕は勝手にずっと思っていたからである(後にボーカルの方だけ少し年上であるという事を知るが、それでも楽器隊が当時まだ高校生だったという事には変わりない)。
そして演奏が始まったのだが、僕はこの時の衝撃をなんと言って良いのかわからない。とにかく目からウロコ、といった具合だった。
音的には所謂村八分直系の日本語ガレージ・ロック。編成はボーカル、ギター、ベース、ドラムのシンプルなもので、ギターとベースが女の子、そしてベースがOさんであった。太いベースとタイトなドラムがしっかりと土台を支え、がなるボーカルにギャンギャン弾くギター。よくわからんロック親父に「若い子がね、古いロックをやってておじさん嬉しいヨ」みたいな寝言を言わせる隙もないほど研ぎ澄まされた演奏と完成度の高さに、僕は文字通り打ちのめされた。
僕が汚い6帖の部屋に閉じこもって、やれ俺は凄いとか、やれ周りが悪いとか、そんな事を言っている間にも、僕と同い年の女の子は、グウの音も出ないほど圧倒的なバンドを結成し、ライブを行っているのだ。「俺は同世代の誰よりも音楽を知っている」などというふざけた自惚れに甘んじて何もせず、古本とCDの山の中でうっとりしている間にも、僕の何倍の量の知識をインプットしていたOさんは外の世界へ飛び出し、自分の音をアウトプットしていたのだ。
ここでまず、僕はその伸びに伸びた鼻っ柱を、完全に叩き折られたのであった。
そして家に帰った僕はさらに驚愕の事実を知る。件のバンドのホームページを見ていたら、プロフィールの欄にこういった事が書いてあった。

2003年6月、村八分のカヴァーバンドとして高校内で結成。
同年9月、文化祭で初ステージを2daysこなす。

つまりこのバンドは、元は高校の仲間で結成されたものだったのだ。それも村八分のカヴァーバンドとして。それを目にした時の衝撃を、僕は今でも忘れない。
僕が「ここがヘンだよ俺以外」と思い込み「まあ君たち愚民どもはハリーポッターでも見ていてくれたまえ」などと根拠もなく他人を見下しにかかり、「俺はきっと凄いんだ!今は何もやってないけど」とクネクネと日々を過ごしている間にも、Oさんは高校入学直後に同志を見つけ、バンドを結成し、学校の文化祭というステージで村八分を演奏し、その後も精力的にライブ活動を行い、常に「戦って」いたのだ。
そこで僕は、漫画版グミ・チョコレート・パインの、あのシーンを思い出す。賢三が山月記を読む場面だ。

人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損ない、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如き、内心にふさわしいものに変えて了った訳だ。今思えば、全く、己は、己の持っていた僅かばかりの才能を空費して了った訳だ。人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すにはあまりに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。

「あ……俺、虎だ……」
この時僕は、確かにそう思った。

さて、それからである。現実にぶち当たり、その山よりも高いプライドを木っ端微塵に打ち砕かれてゲロを吐きそうになっていたその後の僕は何をしていたかというと、これが驚くべき事に特に何もせず、強いていうなら知人の紹介でアニソンのコピーバンドに参加しここで人間性のリハビリを図り、高校を卒業し、無事志望校に落ちてウソみたいな大学に入学し、そこで紆余曲折あり、19歳の終わり頃に初めてオリジナル曲を演奏するバンドに加入する。そこでまた色々揉まれ、技術的にも精神的にもだいぶタフになり、まあ色々あってバンドは2年間活動した後解散するのだけど、その後も僕はあちこちのバンドに首を突っ込み、常識的な生活と人格を破壊しながらバンド活動に邁進していくわけである。その過程で色々な人と出会い、僕と同じ1987年生まれの素晴らしいバンドマンのライブを見てやはりそこでも打ちのめされ、でもおれだって頑張るもんねとへこたれずバンドを続け、自分でも曲を作ったり歌うようになり、気づいたらいつの間にかかつての恐怖の選民意識は綺麗さっぱり消滅していた。そんなものこの年まで残ってたらただのヤバい奴だけどさ。
一方Oさんはというと、僕がライブを見た年の秋にバンドは解散。その後、現在は例のKでファズベースを弾いており、曇ヶ原ではギタリストとして参加して頂いているヤミニさん(本当は10月末で脱退という話だったのだけれど、後任が見つからず、未だに色々お世話になっている。申し訳ない)と共にハードコアバンド「断絶間」を結成する。僕はこのバンドが大好きで、過去2009年にはピノリュック企画、2010年にはぐゎらん堂企画、2011年には曇ヶ原の企画で出演していただいている。
過去あれだけ衝撃を受けたベーシストが参加しているバンドを自分のバンドの企画に呼べるようになって、その度に僕は「少しはOさんに近づく事はできたのかな」と思うのだけど、やはりライブを見る度に「負けた!」と思う。何度も企画に呼んでいる割に、未だにOさんと話す時ヘコヘコしてしまうのは、そういうわけなのです。
しかしあの時Oさんに出会わず、Oさんのバンドを知る事なく人生を過ごしていたらどうなっていただろうか?恐らくプライドの肥大化は止まらず、根拠なく鼻は伸び続け、かといって自分では何もせず、周りを見下しにかかっているからいつまで経っても友達はできず、その結果バンドも組めず、人間性は悪化する一方で、大した人生経験も積む事なく年を取り続け、目出度く最終的には2ちゃんねるあたりに匿名で偉そうな小理屈を垂れ流すインターネットおじさんになっていたのだろうと考えると背筋が凍る。そういう意味では、僕の鼻っ柱をへし折ってくれたOさんは「恩人」なのかもしれない(ちなみにこの話はOさん本人にはしていない。気持ち悪がられるのが自分でもちゃんとわかっているからである)。
現在Oさんはバンドをやっていないそうなのだけれど、またいつか、あの小柄な身体で抱えるジャズベースから放出する太い低音を聴いて「また負けた!」と圧倒されたいものである。そしていつかは僕も、他人を圧倒するような演奏をしなくてはならないのだと固く決意したところでこの話終わり。お粗末!

006 たま解散、あれから10年(後編)

というわけで、あれは夜の10時くらいだったか、僕は家を出、電車3本乗り継いで、埼玉の片隅から吉祥寺まで向かったわけである。
そもそもライブというものにあまり行った事がなく、チケットの前売りのシステムとかもよく理解していなかったのだけど、まあ行けばなんとかなるし、今日買えたら始発が出るまでどこかで時間を潰せばいいし、まだ買えないのであれば会場の前で並んでいればいいだろう、という事を思っていた。ちなみに会場前に徹夜で並ぶ行為は迷惑なのでやめましょう、と当時の僕に伝えてやりたい。
そんなこんなで吉祥寺に辿り着いた。道に迷ってなぜか練馬区に突入したりもしたけど、無事スターパインズカフェに到着できた。そこで店員さんにチケットを買いに来た旨を伝えると、衝撃の事実が。なんとチケットの発売は明日の夕方で、また徹夜で並ぶのは禁止されているので、今ここで渡す整理券を持って、明日また来てください、というわけである。
今考えれば当たり前の話なのだけれど、当時の僕はいきなり計画が潰れて慌てた。さっさとチケットを買って朝イチで帰る予定だったのに、それが早くも頓挫してしまった。もう電車は動いてないから家に帰れないし、そもそも埼玉〜吉祥寺をもう一往復するだけのお金もない。さて一体どうしたものか。
途方に暮れながら吉祥寺の街をウロウロしていたら、なんと偶然駅前で朝までやっている激安の漫画喫茶を見つけた。確か当時は現在ほど条例が厳しくなく、また僕は老け顔だったので高校生だと思われる事もなく、もしかしたら思われていたのかもしれないけれどそこは店員さんの優しさで、無事その日の寝床を手に入れる事ができた。夜通し「東大快進撃」とか喜国雅彦しりあがり寿の漫画を読んでいたら頭が狂いそうになったけれど、そうして少し眠って朝が来た。確か朝の7時に店が閉まるので追い出され、それでもチケット販売まではまだ時間があるので、確か井の頭公園をウロウロしたり、玉川上水を見て「ここで太宰が死んだのか」と思ったり、武蔵野市立図書館に置かれていた「消えたマンガ家」を読んで山田花子の生涯に涙しているうちに時刻は夕方になり、僕は再びスターパインズカフェへと向かった。
そこにはたくさんの人が並んでおり、ああ、こんなにたくさんの人がたまの解散を悲しんでいるのだなとは思わず「本当にこれチケット買えるんだろうな」とあくまで利己的な感情しか湧いてこないのが僕の人間的欠陥の一つなのだけれど、それはともかくとして整理番号にしたがって列へと並んだ。その結果無事にチケットは手に入り、僕は満面の笑みを浮かべながら、再び吉祥寺から埼玉へと帰ったのであった。

さてそれから1ヶ月後、いよいよたまの解散ライブの日である。僕は初日、10月28日の回を見に行った。念のため早めに会場へ向かったのだけど、すでにそこには凄い数の人、人、人。チケットに印字されている番号にしたがって列に並び、開場時間を今か今かと待っていた。道行く人が不思議な顔をして我々を見ていたり、「今日誰が出るんだろうね?」と道すがら話すカップルの声が聞こえてきた事が印象深い。
確かこの列に並んでいる時、僕の前に居た大学生か社会人数年目か、といったくらいの年齢だと思われるお兄さんに声をかけられた。詳しい内容は覚えていないけど、開場するまでたまに関する雑談をしていたと記憶している。僕はそこで「せっかくライブに行ける年齢になったのに、その途端解散してしまって悲しい」というような事を話したはずだ。あの時のお兄さん、お元気ですか?あれから10年の年月が流れ、僕はこんな事になってしまいました。
閑話休題
そしていよいよ会場がオープン。僕は早めにいい場所を取ろうと思い、会場の2階席の前の方を陣取った。ここなら人の頭で前が見えないという事もない。僕はドキドキしながらステージが始まるのを待つ。そして客席の照明が落ち、会場のBGMも鳴り止み、ついにたまのメンバーがステージに現れた。たまの解散ライブ初日の始まりである。

この日のライブの模様はDVD「たまの最後!!」に記録されているので、曖昧な僕の記憶よりそちらを見てもらった方が確かなので詳しくは書かないが、とにかく素晴らしいライブだった、という事だけは確かだ。ラストライブだけれども決して湿っぽくならず、メンバーは当たり前のようにステージに立って、当たり前のようにいつもの曲を演奏し、そして、当たり前のように演奏が終わったらステージを去る。ただいつもと違う事は、メンバーがこのステージを降りたら、もう二度とこの3人は同じ場所に立たない、という事だけだ。
ライブが終わり、僕はステージの近くにより、たまの3人、そしてサポートの斎藤さんとゲストのライオン・メリィさんが使っている楽器の写メを、当時使っていた携帯電話でバシバシ撮る。この携帯は後に使いすぎでどんなに充電してもバッテリーが30分くらいしか持たないようになり、ついに電源も入らなくなりぶっ壊れてしまったので、この時撮った写真も全て消えてなくなってしまった。この時撮ったGさんのギブソンのベースは、高校3年間の間ずっと携帯の待ち受け写真として使っていた。

会場を後にした僕は吉祥寺のココ壱でカレーを食べ、埼玉へと帰った。解散ライブを見た、というよりは、いつものたまのライブを見た、という気分だ。しかしそれは決して間違っていないのだ、と思う。1984年にそれぞれ弾き語りを行っていた知久、柳原、石川の3名が何気なく始めた「たま」というバンドは、いつもと同じように、決して肩肘をはらず、何気なく演奏をして、それが終わったら、みんなそれぞれ別々のところへ帰っていく。「たまの最後!!」というタイトルに相応しいライブであった。

それから3日後の2003年10月31日、たまは解散した。

そしてあれから10年後だ。たまを解散した後もメンバーの3人は各々マイペースに音楽活動を続けている。知久さんと石川さんはパスカルズとしても活動しているし、Gさんと知久さんは「2 ni」というユニットにも参加している(今も活動しているのでしょうか?)。2008年の8月には「10年前の約束ライブ」と銘打ち(これは1998年に行われたファンクラブツアーの参加特典として配布された「10年後の2008年8月8日、たまのライブにご招待しますチケット」の約束を果たすためのライブであった)、一時的な再結成をしてしょぼたまでのライブを行い、ファンを沸かせた。
たまが解散した時16歳だった僕も、当たり前の話だが26歳になってしまった。その間、月並みな感想だが色々あった。バイト代をためてリッケンバッカーのベースを買ったり(これは未だにメインのベースとして使用している)、けれど友達が居ないのでバンドが組めず家で黙々と練習したり、紆余曲折あって高校を出たり、そのくらいの頃にたまのコピーバンド(「金魚鉢」という名前で3年ほど活動。濃ゆいたまフリークが何名も在籍する強力なバンドで、一度もライブをやらなかった事が悔やまれる)、大学に入って色々な人間関係に揉まれたり、「いい加減人間と接しないとダメになる」という理由で本屋でバイトを始めたり、19歳くらいの頃には客として見に行っていたニューウェーブピコピコパンクバンド「ピノリュック」に加入したり、翌年の成人式の日には無力無善寺で行われたイベントで石川さんと共演したり(成人式自体は式だけ出て帰った。中学時代の同級生とも遭遇したが、なにしろ埼玉の田舎なので、来ている連中は地方の人間特有のセンスのないケバケバしさを振りまいている者、逆に中学時代から何も見た目が変わってない者のどちらかしか居なかったので、なんとも悲惨な式だった)、ピノリュック解散後は同じく客として見に行っていた和風ハードロックバンド「ぐゎらん堂」に加入しライブに明け暮れたり、そしてこの頃からやはりまた学校に行かなくなったり、今現在ようやくバンドとして形になってきた「曇ヶ原」を弾き語り形態で始めたりと、まあつまりこの10年で大幅に人生が横道にそれていったわけである。
しかしまるで友達がおらず、ひとりぼっちだった16歳の頃から比べると、色々な人に出会い、恵まれた環境でバンドなんてものをやれていられるというのは、大きな進歩である。あの頃の僕が知ったらなんというだろうか。まったく音楽さまさまだ。

先日インフルエンザになったので埼玉の実家に数日間帰省した。起き上がる気力もなく、かといって寝てばかりいるので今更眠ることもできず、さてどうしたものかと思い、何気なく昔見ていた2ちゃんねるのたまスレを久しぶりに見たのだけれど、まあこれが実に悲惨な荒れ方をしていて、余計に具合が悪くなっていった。
主な揉め事の争点としては「新規ファンVS古参ファン」なのだけれど、その中で「たまは再結成するべきか否か」のような話題も上がっていた。書き込んでいる人の素性がわからないので全くの憶測なのだけれど、ざっくり分けてしまえば、再結成して欲しい派が新規ファンで、再結成しなくていいよ派が古参ファンなのだと思う。僕は新規ファンというわけでもなく、かと言って古参ヅラをするにはファン歴が浅すぎるので、どちらにつく事もできないし、逆に言えばどちらの気持ちもわかる。
実際に演奏しているたまを自分の目で見たいと思うのは当然だし、今はメンバー各々活動をしているわけだから、昔の話題ばかりを持ち出すのもどうなんだという懸念もわかる。
「お前は一体どっちの味方なんだ!」と言われたら、いつもと同じように曖昧なへらへら笑いを浮かべつつ「いやーどうなんでしょうねえ」とお茶を濁しながらそっとその場からいなくなるというのが僕のよく使う卑劣な手口なんだけれども、とりあえず僕の見解としては「本人たちがやりたくなったらやるだろうし、やりたくなかったらやらないだろうし、それでいいんじゃねえの」という実にいい加減なものである。
実際、しょぼたまとしてのライブは何年かに一回くらいの割合でやっているようだから、動いてるたまを見たい新しいファンは、その機会を逃さず見に行ったらいいんじゃないかと思う。無理はしないしさせないし、やれる時にやるし、見に行ける時には見に行く、それが「たま」と「たまファン」としてのベストな関係性なんじゃないかなと思う。

明日でたま解散から丸10年が経つ。石川さんのホームページには過去の日記が掲載されていて、2003年10月31日の日記にはこう書かれている。

「たま」お・し・ま・い!

005 たま解散、あれから10年(前編)

2003年の10月に吉祥寺スターパインズカフェで行われたたまの解散ライブ「たまの最後!!」から明日でちょうど10年が経つと知って驚く。ぼんやりと生きているうちに、途方も無い年月が過ぎてしまっていた。

1998年、世紀末がどうのとかノストラダムスがどうのとか騒がれている中で、僕は小学5年生だった。今の僕を知っている人は想像がつかないと思うけれど、あの頃僕は、図書館と古本屋をはしごして漫画ばかり読んでいた点を除けば比較的明るい少年で、少ないながらも遊ぶ友達はいたし、時に男女混合のグループでとなり町まで遊びに行ったり、修学旅行のバスの中では率先してカラオケを歌ったり(曲はT.M.Revolutionの「HOT LIMIT」。振り付け付きで歌った。あれを覚えてる人、今すぐ忘れてください)、更に恐るべき事に、後に発行される小学校の卒業アルバムでは「面白い人」「クラスのムードメーカー」「将来有名になりそうな人」のランキングで1位を獲得したりしていた。ウソだろ!と思うだろうけど、本当の事なんですこれ。
当時から音楽は好きで、さらに当時はテレビっ子だったので、毎週「速報!歌の大辞テン」とか「CDTV」といった音楽番組をチェックしていたし、文化放送で放送されている音楽ランキング番組も聞いていた。だから未だに90年代後半に流行っていたJ-POPは大体思い出すことができる。
ちょうどその頃、誕生日にミニコンポを買ってもらった。CD、MD、カセットが再生できてラジオも聴けるすぐれものだ。これで僕は毎週色々なラジオを聞くようになり、深夜ラジオにのめり込み、その流れで声優がパーソナリティを務めるアニラジも聞くようになり、中学生になる頃には一端のオタクになっていたのだけど、それはまた別の話なので割愛する。
さて、コンポを買ってもらったはいいが、手元にはそれで再生するためのCDがない。小学生の財力と言ったら限られており、1枚3000円、シングルでも1000円はするCDをホイホイと買う事はなかなかできず、当時僕が持っていたCDと言ったら、ラジオの応募プレゼントで当たったCD券で買ったT.M.RevolutionMALICE MIZERのアルバムと、子供の頃親父に買ってもらった劇場版ドラえもんの主題歌が入ったシングルくらいである。あと、僕が初めて自分のお金で買った、結城梨沙などが歌うOVASDガンダムの主題歌が何曲か収録されている「ミニアルバム」という名前のシングル盤か。とにかくその頃僕は、あまりCDを持っていなかった。
そこで僕は、近所のレンタルビデオ屋兼中古ゲーム屋兼CDショップ「リバティー」に通い詰めるようになった。ここでは古いシングルCDが1枚10円とか20円とかで叩き売られていたので、僕はそこでわけもわからず、一番安く手に入る90年代初頭に流行った曲のシングルをモリモリと買った。とにかく買ってもらったコンポでCDを再生したい、というのが一番だったので、音楽性がどうとか、好みがどうとか、そういうのを全部抜きにして、とにかく安いものを手当たり次第買ったのだった。なので今でも僕の実家にはKANの「愛は勝つ」とかB'zの「愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけない」とかの短冊シングルがどこかに転がっていると思う。

そんなある日、僕はいつものようにリバティー(6年前に潰れ、今ではゴルフ用具品店になっている)に足を運んだ。定価で売られている新譜CDコーナーを無視して、古い短冊CDが大量に刺さっているいつものコーナーに向かい、せっせと安いシングルを探していた。
そして僕は「た」の行で、不思議なジャケットのCDを目にする。
表は粘土で作られたメンバーの顔。裏は実際のメンバーの写真が使用されているのだけれど、それがまた奇っ怪なものだった。
メンバーは4人。おかっぱ頭、ランニングを着ている坊主、後の2人も異国じみた格好をしている。その4人はそれぞれ担当と思われる楽器を持っているのだけれど、それもまた、アコーディオン、首から下げた小太鼓、8弦の見た事もない楽器(当時の僕はマンドリンを知らなかった)と、あまり馴染みのないものばかりがそこには写っていた。
少し解説をすると、98年当時といったら所謂「第二期ヴィジュアル系バンドブーム」というものが到来していた時代で、音楽番組を見れば必ず上位に数組はヴィジュアル系のバンドがランクインされていた。MALICE MIZER、La'cryma Christi、FANATIC◇CRISISSHAZNAが「ヴィジュアル四天王」という恐るべき名前で呼ばれていたり、PENICILLINDIR EN GREY、更にはLaputaと言ったバンドがアニメの主題歌を歌っていた。
そんなヴィジュアル系ブームまっただ中で小学生だった僕は、小粒な脳みそをフル回転させた結果「そうか、バンドというのは、髪の色がカラフルだったり、顔の前に開いた手を置くよくわからないポーズを取ったり、とにかくカッコいい人がやるものなんだな」という結論に至った。それと同時に、ぼんやりと想像していた「いつかギターを練習してバンドを組みたい」という夢も諦めた。当時から僕の面構えは人並み以下であると認識していたので、こんな不細工な俺があんなカッコいい事をできるわけがないじゃないか!というわけだ。
そんな事を思っていたので、その時手にしたCDのジャケットには度肝を抜かれた。バンドというのは、ボーカル、ギター、ベース、ドラム、キーボードが「いなくてはならず」、そしてメンバー全員「カッコよくなくてはいけない」という認識があったのだが、そのジャケットに写っている人々はそのどちらにも当てはまっていなかった。
ベースはいるけどギターはいないし、ドラムとキーボードがいない代わりに太鼓とアコーディオンがいる。メンバーみんな髪も長くないし逆立ててもいないし、顔も決してカッコいいというわけではない(よく考えてみるとメンバー全員美男子なのだけれど、見かけの奇天烈さに目を取られていた当時の僕はそこまで気づく事ができなかった)。
そして曲名も妙だ。その当時といったら、大体タイトルに「Love」とか「愛」とかが入っていたし、そもそもバンドがやっている曲名は「必ず英語でなくてはならない」という固定概念もあった。なのにこのシングルのジャケットに書かれているタイトルは「さよなら人類/らんちう」である。
いったいこのバンドはなんなんだ!?というわけで、僕は当時としては高額な200円を払い、そのシングルCDを買った。
もう言わなくてもわかると思うけれど、そのバンドの名前は「たま」。図らずしも僕は、200円を払った事によってその後の人生が大幅に変わっていくのだけれど、その事にまだ当時の僕は気づいていなかった。

さて、ジャケットに強烈なインパクトを受けて思わず買ってしまったCDだけれども、家に帰ってそれを再生してみると、更に衝撃を受けた。とにかく、今テレビで流れている音楽、そして今まで聴いてきた音楽、そのどれにも当てはまらないのだ。
激しいビートを刻むドラムも、ギャンギャン鳴ったりピロピロソロを弾くエレキギターもない。その代わりにチャカポコとなる太鼓の音(後にそれが桶や鍋であるという事を知る)、そして2曲目では淋しい音色のアコースティックギターアコーディオンの音色が鳴り響く。歌詞も「君が好きで壊れそうでどうのこうの」みたいなものではなく、「二酸化炭素を吐き出して/あの娘が呼吸をしているよ/曇天模様の空の下/つぼみのままで揺れながら」といった、掴みどころのない、そして不安とも安心とも言い難い、不思議な気持ちになる歌詞が牧歌的なメロディで歌われている。
2曲目「らんちう」の最後の「ゴーン」という鐘の音が鳴り、CDの再生が終わった頃には、僕はもうこのバンドに釘付けになってしまっていた。
「なんなんだこのバンドは!」
それは最初は怖いもの見たさとか、物珍しさであったかもしれない。しかし、近所の中古CD屋を回ってアルバムを手に入れたり(幸いな事に『さんだる』〜『犬の約束』まではスムーズに手に入ったのだけど、『ろけっと』以降が全く見つからず泣かされた)、その頃父親の会社に導入されたパソコンで、ネット上に載っているたまのライブレポとかを印刷してもらって読んだりしているうちに、そのたまの持つなんとも形容し難い世界に夢中になっていた。
知久寿焼の歌う「さみしさ、かなしさ、たのしさ」の世界、柳原幼一郎の童話の世界のような楽曲、石川浩司の笑顔で人を殺しそうな狂気性、滝本晃司が淡々と歌う日常から少し逸脱した風景。この4者の歌う歌は、少なくとも98年当時僕の知っている限りでは、テレビからもラジオからも流れていなかった。
「そうか、音楽とはこういう事を歌ってもいいのか!こういう楽器を使って、こういう格好をしていてもいいのか!」
という事を教えてくれ、僕の固定概念を木っ端微塵に打ち砕いてくれたのが、たまである。

そして翌年の11月、川崎のクラブチッタで「たま結成15周年ライブ」が行われる。偶然図書館に置いてあったぴあでその情報を目にし、もうそれからは居てもたってもいられず、結果、貯めていたお年玉貯金を下ろしてチケットを買い、埼玉の片田舎に住む頭の悪い小学生では川崎まで一人で行く方法がわからないので、仕事終わりの父親に会場まで連れて行ってもらい、無事クラブチッタに辿り着き、僕は夢にまで見た「動くたま」を見る事ができた。最初にやった「かなしいずぼん」の語りの最後で石川さんが「この話は、3曲後に続く〜!」といい、その3曲後の「学校にまにあわない」の語りの部分に繋がっていった時は感動したし、なによりその時聴いた「空の下」「ゆめみているよ」〜「夢の中の君」は、多分一生忘れないと思う。
ちなみにこれが僕の人生初のライブ体験であった。本当はこの1年か2年前に、当時流行っていた番組「ウッチャンナンチャンウリナリ」から出てきたユニット、ポケットビスケッツの「署名を集めてポケビ解散撤回しよう!イベント」を確か幕張まで見に行っていたので、厳密に言うならばたまの結成15周年記念ライブは人生で2度目のライブ体験なのだけれど、いちいちポケビ云々のくだりを説明するのは恥ずかしいのでなかった事にしている。「大変だ!ポケビが解散しちゃう!みんな署名して!」だって。バカか。

その後僕は中学生になり、年に1回くらいはライブに行き、昔たまがレコードを出していたという情報からナゴムレコードを知り、その頃ちょうど発売した「ナゴムの話」をとなり町のサブカル感あふれる本屋「あゆみブックス」で購入し(2000年ごろは太田出版とか青林工藝舎とかの本が一角に沢山置かれていたのだけれど、僕が高校を出た頃くらいからサブカルコーナーが全部撤廃され、跡地には萌え系4コマ漫画の単行本がずらりと並べられていた。サブカルがオタクに敗北した瞬間である)、それを表紙が擦り切れるほど読み、その辺りから筋肉少女帯とか有頂天とか痛郎(僕が日本で一番好きなバンド。このバンドについて話すと止まらなくなるので今回は省略する)を知り、それと同時にキング・クリムゾンとかイエスといったプログレを聴くようになり、中学校生活では吹奏楽部に入ったものの恐るべき女社会でそこから爪弾きにあい、勉強もたいしてできず、顔はニキビだらけになり、身長も伸びなくなり、人生の方も伸び悩み、これから先長い長い暗黒期に突入していくわけだが、一体何の話をしていたのかわからなくなってきたので話を戻すとして、とにかく僕はたまをきっかけとして、所謂サブカルチャーの世界に没入していく事になったわけである。

そんな鬱屈とした中学時代を過ごしていたわけだけど、僕には希望があった。それは「高校生になったらアルバイトもできるし、そうすればお金が自由に使えてたまのライブにも行ける!」というものだ。結局中学生の財力なんてものは限られており、ライブに行けないのはもちろんの事、発売したCDを買う事すらままならない。結局ネットに上がっているたまファンサイトのライブレポを見て、ライブの光景を想像し、いいなあーおれもいきたいなあー、と、汚い4畳半の部屋ででんぐり返っているわけだが、高校生になれば全てが解決する!と思っていた。そう思っていたのだった。
そんなに頭の良くない高校に入学した2003年、学校で友達はできず、入った吹奏楽部は3ヶ月で辞め、そして迎えた夏休み。遊びに行く友達なんていないので、自宅で延々と筋肉少女帯の「サーカス団パノラマ島へ帰る」を大音量で流し続け、親に心配されていたそんなある日の事であった。
2003年はTwitterはおろかmixiもなく、ぎりぎりブログというものが出てきたくらいの頃なので、情報収集の場は2ちゃんねるに頼りっきりだった。その日も僕は昼間っからどこへも行かず、「どれ、今日もたまスレでも見るか」といってパソコンの前に座るという非常に有意義な夏休みを過ごしていたのだけれども、いつものようにたまスレを開いたら、スレがずいぶん伸びている。そして書き込みの内容も慌ただしい。おや何かあったのかなと過去ログをさかのぼってみると、とんでもない書き込みを目にした。
「たま、10月で解散」
過去ログが確認できないのであやふやな記憶でしかないのだけれど、確か最初の書き込みはたまファンクラブに入っている人のものだったと思う。家にファンクラブから封筒が届き、開けてみたら解散のお知らせが入っていた、というものだったはずだ。
この書き込みを見た時の事をよく覚えていないという事は、多分それほどまでにショックを受けなかったのだろう、と思う。というより、突然の事だったので何がなんだかわからなかった、という方が正しい。バンドが解散するということの重大性をまだこの時は理解していなかった。
しかしその衝撃はじわじわと来た。「おいおい、解散するって事はつまり、これから先ライブに行けないって事じゃん!どうしてくれるんだよ!」。そんな事言われても知らんよと今の僕なら言うけれど、なにしろ16歳の小粒な脳みそではそこまで考える事ができなかった。
あわわあわわとしているうちに夏休みが終わり、学校が始まり、この辺りから学校に行かなくなってきたのだけど、まあその話は置いといて、そしてこの頃また2ちゃんねるでたま解散の情報を目にする。
「たまの解散ライブは10月の28、30、31日の3日間、吉祥寺のスターパインズカフェで行われる。それに伴い、今夜からその前売りチケットの受付が会場で行われるらしい」
その時僕はこう思った。「この前売りチケット、いつ買うか?」まあこの後のセリフを書こうとしたけど文字を打っているうちに自殺したくなったので書かないし、そもそもそんな事2003年に考えているわけがないのだけど、それはそれとして、とにかく前売りチケットが今夜から発売されるという情報を手に入れたわけである。このライブを見逃したらもう二度とたまを見る事ができない。そしてチケットを早く買わないと売り切れてしまう可能性が高い。どうするか?
「よし、今夜吉祥寺に行こう」

004 あの頃アニソンを聴いていた僕の気持ちとそれに伴う謎

今でも漫画やアニメはよく見るし、最近は家にテレビとレコーダーがやってきた事によって、とりあえず放送しているアニメは大方録画し、まあそのうちの大半は見ないのだけど、その中から面白そうな物をピックアップして毎週見る、という生活をしている。しかし中学生から高校生の頃にかけては、今よりどっぷり蔑称としての「オタク」だったので、週に10本くらいはアニメを見ていたし、声優がパーソナリティを務めるラジオも聞いていた。そのおかげでアニソンには詳しくなり、久米田康治言うところの「ダメ絶対音感」も身につき、予備知識無しで見たアニメでも「お、このキャラクターの声は堀江由衣だな」とかわかるようになった。よくある話である。
高校生になってからは自分のパソコンを買い与えられ、今で言うネットラジオのはしりのような、一日中アニソンや声優ソング、その頃勃興してきた「電波ソング」と言われる曲などを流すサイトを見つけた。またその辺りから神経がおかしくなり、学校に行かなくなってきたので、結果延々と暗い部屋に閉じこもり、当時人気を博していたI'veとかfeel、桃井はることいった人々の曲を聴き続けるという地獄のような日々を過ごしていた。二度とあの頃には戻りたくない。
さて、そんな暮らしをしていると、今まで何気なく聴いていたアニソンやら電波ソングを耳にしているうちに、だんだんと暗い感情が芽生えるようになってくる。つまり「ああ、俺の人生にこの歌詞のような出来事は一生起きる事はないんだろうな」という思いである。今はどうだかわからないけれど、2000年代前半のアニソンや声優ソング、電波ソングといった曲の歌詞の大半は、主人公である「私」あるいは「僕」が、恋人関係にある、もしくは淡い恋心を抱いている「君」への感情を歌ったものであった。やれ君が好きだの、やれこのドキドキがだの、身も蓋もない言い方をしてしまえば、どこにでもあるようなラブソングである。
高校時代の頃の僕と言ったら、今に輪をかけてヒドいもので、色恋沙汰はおろか友達すらいなかったので、学校に行って誰とも口を利かずに家に帰るというのが当たり前の暮らしをしていた。3年間無人島に隔離されていたようなものだ。
そんな状態で、愛がどうだの恋がどうだのという歌詞の曲を延々と聴き続けているとどうなるかというと、「世の若者たちが恋愛を楽しみ海へ行ったり観覧車に乗ったりしてちゅっちゅしているというのに、僕は延々と新座の食品工場でおにぎりを握り続けるアルバイトをしているだけ!」と、まるで全世界から孤立したような気分になり、神経症は悪化し、日常会話もおぼつかなくなり、しまいには「道行く人々が俺を笑っている!今電信柱が俺をバカにした!」と被害妄想に囚われ、結果ますます部屋から出なくなるという、とんでもない負のサイクルに巻き込まれてしまうのである。
例えば当時どんな曲を聴いていたかというと、こんな曲である。

前者のKOTOKO「Cream+Mint」の歌詞を抜粋する。

ねえ 君が大嫌い 切なくさせるから
誰より近い場所で あくびをしたいのに

ねえ 恋は 甘くて苦いものなんだね
真っ白なカップの中 二人はすれ違い

後者の田村ゆかり「A Day Of Little Girl〜姫とウサギとおしゃべりこねこ」の歌詞はこうだ。

めぐる めぐる 夜空に
気持ち 全部 はじけてる
そっと そっと 届くといいな
まわる まわる 景色に
秘密 全部 ちりばめて
君に あげる 気づいて欲しいな

前者はまあよくある話で、主人公は「君」に対して恋心を抱いているのだけれど、「君」は「あの子」に気を惹かれていて、主人公は煩悶する。けれど最終的には主人公と「君」は手をつないで「真っ白なカップの中 二人は溶けてゆく」というわけだ。
後者は「不思議の国のアリス」をモチーフにした少女趣味あふれる歌詞で、図書館の本に吸い込まれ、おしゃべり猫や小さなうさぎも現れ、そんな景色に秘密を散りばめて「君」にあげるよ、という、なんともメルヘン過剰な歌詞である。
今この二曲を聴いても別になんとも思わないのだけれど、17歳の僕は、例えば「Cream+Mint」を聴いて「俺に『ねえ君が大好き』なんて言ってくれる子なんていない!俺の近くであくびをしたいなんて思ってくれる子は現れない!これから先も!ずっと!一生!」とわめきちらし、「A Day Of Little Girl〜姫とウサギとおしゃべりこねこ」を聴けば「俺に秘密をくれる女の子なんて現れない!そもそも俺のこのトラックに踏み潰されたじゃがいもみたいなツラで何が『小さなうさぎ 耳打ちしてるよ さあこの道を急ごう』だ!いい加減にしろ!」とでんぐり返る。つまり、17歳の頃の僕は、孤独と非モテと顔面の悪さに起因するコンプレックスが入り混じってめちゃくちゃになっていたので、こういう過剰に装飾された世界を目の当たりにしてしまうと、完全に劣等感を刺激され、何がなんだかわからなくなってしまうのである。
そもそもあの頃の僕にとって「おしゃべり猫」だの「図書室の本」だの「光の森」だのといったメルヘンなキーワードは月より遠い存在であって、どちらかと言うと「早朝のゴミ捨て場に集まるカラス」とか「カビ臭い古本屋」とか「足を取られたら最後の底なし沼」といった単語の方が身近なものだった。当時のアニソンの歌詞を書いていた人も、こういうキーワードを取り入れてくれれば、僕も神経症が悪化する事はなかったのに。間違いなく売れないけど。
余談だけど、この頃僕は有名エロゲーメーカー「Key」が出した新作の全年齢対応ゲーム「CLANNAD」に手を出した。「Kanon」「Air」の二作はやっていたし、ちょうどこの頃延期に延期を重ねてようやく発売したので、これはやっておかねばと確か発売日に買ったのだけれど、これが大間違いだった。ゲームの舞台は坂の上の高校。そこで主人公は様々な女の子と出会い、時に友人との会話も楽しみつつ、部活に恋愛とこなしていくというのがざっくりとしたストーリーなんだけれども、この頃僕は学校もロクに行かず、もちろん部活もやっておらず(吹奏楽部には入っていたけれど三ヶ月で辞めた)、恋愛どころか雑談を楽しむ友人すらいないような状況だったので、つまりこの「CLANNAD」のメインの三本柱となる「学校」「友情」「恋愛」のどの要素も満たしていなかった。それだけでゲームをやらなくなるには十分だったのだけれど、せっかく買った手前、劣等感を刺激されながらも無理やりゲームをプレイしていた。けれどある時、ゲームを終え、パソコンの電源を切った直後、真っ暗になったディスプレイに反射して映った僕のメチャクチャな顔を思いっ切り見てしまい、それ以降このゲームをプレイするのは諦めた。これ以上やっていたら自殺してしまいそうになったからだ。
そんな事をやっているうちに、だんだんとオタク文化から足が遠のき始めた。きらびやかな世界のエロゲーやギャルゲー、深夜アニメより、古くなって黄ばんだ本の中でじっとりと描かれる大槻ケンヂの小説や山田花子の漫画の方がしっくり来るようになり、アニソン等を聴かなくなった代わりにプログレ、フォーク、ナゴムレコードにトランスレコードといった方面の物を前にも増してモリモリ聴くようになり、ラジオもアニラジが多く放送されている文化放送ではなく、TBSラジオにチャンネルを合わせ毎週月曜の深夜には伊集院光のラジオを聴くようになった。
つまりオタク文化から脱し、今度はサブカル文化にどっぷり浸かるという、沼から這い出たと思ったら今度はまだ別の沼に突入するという自体になってしまったのだけれど、まあひとまずそれで精神的均衡は保つ事ができたので良しとしよう。

で、あれから10年近い時が過ぎた。現在26歳である。さすがにいい大人なので、この歳になってアニソンを聴いて「この歌詞は俺を世界から排斥しようとしている!」とわめくような事はなくなったし、今では「まあこれはこれ」としてそういった音楽も聴けるようになった。かつて僕の劣等感をこれでもかとくすぐった数々の曲もである。
そんな中、不思議な事が一つある。それは、僕のようにパッとしない学生時代を過ごし、そんな中細々とアニソンなどを聴いていたオタク趣味を持つ同年代の友人に、上記の話をしても、誰一人頷いてくれないのである。
「高校生の時とかさ、アニソンの『君が大好き〜』みたいな曲を聴いてるうちに死にたくなったよね」
もちろん友人は「あるある!」と言ってくれるに違いないと思ったのだけれど、返ってきた言葉は「ねーよ」だった。そのショックに愕然としながら、他の友人に話してみても、みんな似たような事を言うばかり。その上インターネットで「アニソン 鬱になる」「アニソン 聴く 死にたい」「アニソン 誰か 助けて」でぐぐってみても、全く思ったような記事がヒットしない。
これはどういう事なのか。つまり、アニソンとかの曲を聴いて暗い気持ちになり世の中を憎んだり神を恨んだりしているのは僕だけで、世の中の大多数の人間は、普通にアニソンの歌詞をそのままに受け入れて楽しんでいたという事なのだろうか。
いや、そんなバカな!と僕は思う。僕は中学高校時代、声優のラジオの公開録音とか、無料のインストアライブとかによく行ったりしたけど、その会場で見かけた人々と言ったら、まあ僕が言えた立場ではないけれど、外見的には実に悲惨な人々が多かった。今みたいにオタクをファッションの一部と捉えた前髪を斜めに切ってツーブロックにしたテニスサークルとオタクサークルを掛け持ちしてるような鼻持ちならないクソ大学生(週末はアニソンDJをやってコスプレイヤーの彼女がいる。ふざけやがって)みたいな奴は一人もおらず、いるのは主にチェックのシャツをジーパンにインしてるような冴えない男とか、身体が縦にも横にも広いのにやたらヒラヒラした服を着るもんだから更に体積が増して見える女とか、床屋で切った頭髪が中途半端に伸びてボサボサになり、眉毛の手入れをするという概念がないので目の上に海苔を貼ったようなごんぶと眉毛が原因で塾では「ゲジゲジ」というあだ名を付けられていじめられている中学生とか、まあこれは僕の事なんだけれど、そんな奴らばっかりで、彼ら彼女らがとても人並みの青春を過ごしているとは思えない。そんな人々がなぜ、愛がなんだ恋がなんだ、君が好きで会いたいけど会えないみたいな歌詞を、平気な顔をして聴いていられるのだろうか。もはやただの悪口になってきたけど、僕はこの点が本当に不思議でならない。
この謎に関しては、福満しげゆき僕の小規模な失敗」の作中のセリフ「世間のみんなが強いのか……僕が弱すぎるのか……」という言葉を持って、ひとまず自分を納得させてはいるんだけれども、それにしても腑に落ちない。
2000年代前半、まだオタクの社会的な地位が圧倒的に低かった頃、そんな中で冴えない学生生活を過ごしながらもアニソンを聴いていた人の意見を待つ。

003 【告知】10月28日「螺旋の表層」&ギタリスト募集中

次回曇ヶ原ライブの告知です。

2013年10月28日(月)
「螺旋の表層」
神楽坂EXPLOSION
東京都新宿区矢来町112番地 第二松下ビルB1F
(03-3267-8785)
開場/開演 19:00/19:20
前売/当日 2000円/2300円(共に+1drink)
出演:
■木幡東介(マリア観音
■セイシカラス
■ビル
■CYKICK
■曇ヶ原

曇ヶ原の出演は3番手、20時40分頃になります。
対バンがマリア観音の木幡さんソロにいぬん堂の社長のビルと、非常に濃ゆいメンツ!週初めだってのにとんでもない組み合わせだ。一見の価値あり。

そしてこのライブを持って、ギタリストのヤミニさんが曇ヶ原を離れます。それに伴い、曇ヶ原では新ギタリストを募集しています。
条件としては、

  • 変拍子に対応できる人
  • いい感じのフレーズを弾ける人

の2点です。
ちなみに曇ヶ原とはこういうバンドです。

ご連絡は kumorihagara@gmail.com まで。
ご応募お待ちしています。

002 青森で人間椅子を見た

少し前の話だけれども、9月14日に青森県夜越山スキー場で行われた屋外イベント「夏の魔物」を友人数名と見に行ってきた。僕は夏フェスというものに行くのはこれが初めてで、一体どんなものなのか、どうせ音楽をダシにしてあわよくばセックスを狙った男と女がうじゃうじゃ湧いて、森の茂みの方で何やらゴソゴソやってるんだろ、夏フェスなんて、クソが、という卑屈な思いを抱きつつ青森に向かったのだけど、結論から言うと凄く楽しかったです。何だこの小学生並みの感想。「楽しかったです」だって。アホか。
朝っぱらからBiSと非常階段のユニット「Bis階段」の演奏が行われていて、もはや前列の方で踊るBiSの面々しか見ていない客と、それにも関わらずギターを振り回すJOJO広重の姿を見て、なんとも言えない暗い気持ちになったのだけども、まあそれはそれとして、とにかく普段見られないような組み合わせの人達を立て続けに見る事ができたので、こういうのがフェスの面白さなのかなとも思う。もっとも普通のフェスでは、突然川越シェフが歌を歌い出したりしないけど。
今回見たいバンドはいくつもあったけど(高校時代、学校にも行かず部屋に寝そべって天井を眺めつつ、ネットラジオから流れる電波ソングを延々と聴くという廃人同様の暮らしをしていた僕にとって、青森の空の下でmilktub桃井はるこのライブを見るのは、あの頃の自分を打開できたような気分だった)、一番気になっていたのは人間椅子と、ROLLYwith人間椅子。そのステージたるや圧巻で、ROLLYwith人間椅子の時は途中停電のトラブルで何度も演奏中断の憂き目に合いつつも、ベテランの腕前で場を繋ぎ、それすらも逆手に取って会場を沸かせるという芸当をやってのけたし、人間椅子の時はもはや説明不要。ラストの「りんごの泪」「針の山」では最前列でモッシュが起こるという盛り上がりを見せた。
その後時間の関係で、夜更けの山間に響く三上寛の怨歌を聴きながら会場を後にした。そこから電車で岩手県の久慈に移動して一泊し、翌日は「あまちゃん」の舞台地のあちこちを回ったのだけど、まあこれは長くなるので割愛するとして、それから再び青森へ向かい、青森市のライブハウスで人間椅子のライブを見に行ったのであった。二日連続で人間椅子。性格が変わりそうだ。
この日のライブも満員御礼で、客席は老若男女問わず、その場にいた全員が人間椅子の繰り広げる新曲、旧曲入り混じったステージを夢中になって見ていた。
満足したまま我々は夜行バスに飛び乗り、東京へと戻ったのであった。

さて、人間椅子の話である。
人間椅子とはもはや説明不要の、日本を代表すると言っても過言ではない「日本語によるハードロックバンド」である。89年にイカ天に出場し一躍脚光を浴び、90年にメジャーデビュー。その後バンドブームの終焉とともに長らく不遇の時代を過ごしたが、ここ数年再び注目されつつある。特に今年行われたオズフェスに出演、そしてももいろクローバーZのステージに和嶋さんがゲスト参加した(これには賛否両論あるが、僕は「使えるものは何でも使おう」という主義なので、これが結果的に人間椅子知名度アップに繋がったのだからいい事だと思う)という事もあり、現在は若いファンも増えているという。
結成25周年を迎え、今もなお精力的に活動し続ける彼らを見て、バンドマンたちはこぞって「バンドを続けていく勇気をもらった」「続ける事が一番大事だ」「諦めなければどうにでもなる」という。
しかしそれは、本当に正しい事だろうか?

確かに人間椅子は、メンバーの脱退、メジャーからの切り捨て、伸び悩む動員、といった不遇の時代を乗り越えて、再び現在若く新しいファンを増やしていったという実績がある。しかしそれは人間椅子だからできた事であって、例えば我々のような有象無象が20年以上見当違いな努力をしたところで、それはただただ時間とお金と労力を消費するだけだろう、と思う。
こういう事を言うと必ず「才能より努力が重要だ!」という人がいる。もちろんそれは間違っていない。だがしかし、僕たちはきちんと「努力」をしているだろうか?
「いつやるか?今でしょ!」という、今世界で一番使う事をためらわれる日本語を生み出した人でお馴染みの林先生が「『努力は必ず報われる』というのはウソだ。『正しい方向に進むための適切な努力は報われる』というのが正しい」と言っていたが、正にその通りだと思う。
果たして僕たちバンドマンは、人間椅子のような努力をしているだろうか?新曲を常に作り続けてはいるか?似たようなステージにならないよう心がけているか?変なライブハウスのウソみたいなブッキングライブにボッタクリみたいなノルマを支払い金銭的に疲弊していないか?無意味に飲み会に参加し、その界隈の「先輩」をヨイショしてつまらない人間関係を維持するのに躍起になっていないか?「メジャーに行ってもロクな事がないよ。マイペースに活動するのが大事だね」という言葉を免罪符にして、同じ人間ばかりがウロウロするだけのぬるま湯コミュニティにどっぷり浸かっていないか?
この努力ができていて、初めて「我々も人間椅子のように頑張ろう」と言う事ができる。そうでない人があたかも自分が人間椅子と同じ努力をしているように語るのは、傲慢以外の何物でもない。

なんだかんだで細々とバンドを6年やっているけれど、その間結構な割合で「バンドで売れる気はさらさらないんで」とか「自分のやりたい事をやれるのが一番だよ」という人に出会った。もちろんそのうちの半分くらいの人は本当にそう思ってると思うし、決してそれは悪い事じゃない。制約に囚われることなく本当に自分のやりたい事を自由にやるというのは素晴らしいことだ。
しかしもう半分くらいは「この人心からそう思ってるのかな?ポーズじゃないのかな。あわよくば一発当てたいと思ってるんじゃないのかな」と勘ぐってしまう人もいる。
で、なぜかこういう人の前で「バンドで食っていきたい」という話をすると、嬉しそうに「いかに現在の音楽シーンが腐敗しているか」「もはや音楽で食っていくのは無理」「だったら売れなくとも自分の好きにやった方がいい」という話を大きな声で始める。言ってる事は間違ってないし、むしろ正しいんだけれども、でもなあ……と、うっかりその人が矮小な打ち上げでお客さんとキャッキャしてる姿を見てしまうと、首が大いに傾いていく。
そもそも人間椅子だって一度メジャーに行ったしね。たましかり、筋肉少女帯しかり、しっかりと活動をしているバンドは大体一度メジャーの波に揉まれている。それを踏まえた上で「いや、メジャーに行くのはそんな良い事じゃないよ」というのはわかるが、一度も浮上した事がない人がメジャーの害悪を説いたところで、それはもはや酸っぱいブドウとしか思えない。
もちろんそれは人それぞれだし、メジャーに行って「ビッグになる」事だけが音楽活動の目標じゃないので、小規模に自分のやりたいと思える事だけをミニマルにやっていくというのでもいいのだけど、やっぱり僕としては、勢いのあるバンドマンには、スカしたコメントではなく「何が何でも音楽で食って行きたいんすよ!」くらいの事は言ってほしいなあ、と思う。

ちなみに僕のポジションは「積極的に売れようとは思わないが、できるだけオープンにして規模を広げていきたい」というものです。まあそれに向けて頑張っていきますよ。