013 Who Killed "例のK"?

3月16日のお昼、さてそろそろ出かけるかという時に何気なくTwitterを見たら、例のKの活動休止宣言がされていて泡を吹いた。この日は自分のバンド「曇ヶ原」の自主企画当日で、そのイベントに例のKはトリとして出演して頂く事になっていたのだ。そういった話は一切聞いておらず、寝耳に水である。
何はともあれ荷物をまとめて家を出、電車に乗って西荻窪へ向かう。早めに会場入りをして準備をしていると、出演者の人々が少しずつ集まってくる。我々曇ヶ原のリハが終わり、機材を楽屋に置き、一段落ついたところで、例のKではファズベースを、曇ヶ原ではギターを担当しているヤミニさんに聞いてみる。
「例のKはどうなるんですか?」
「うん、解散するよ」
いつもの調子で話していたが、一同はざわついた。更に話を聞くと、名前を変えて別名義で活動をするというわけでもなく、本当に「例のK」というバンドは、このライブを以って活動を停止してしまうのだ。
その話を聞きながら、僕は9年前の事を思い出していた。

今から9年前、2005年の秋。その頃僕は18歳になったばかりで、もはや完全に生活が破綻していた。学校にもロクに行かず、髪を肩まで伸ばして風貌は浮浪者そのものとなり、部屋にこもってでかい音で音楽を聴いているかファミコンドラクエ4をしているかというメチャクチャな日々を過ごしていた(ちなみにこの頃は日本のオルタナをよく聴いていて、確かCowpersを爆音で流していたら隣の部屋の祖父が突然部屋に乱入し「麻原彰晃みたいな頭しやがって!お前これからどうするつもりだ!」と説教をされた)。
当然ながら人間との接点は皆無に等しく、この頃の僕と言ったら、まるで無人島で暮らしているようだった。ドラえもんの道具で、飲むと絶対に他人と顔を合わせなくなる「無人境ドリンク」という物があったが、それを飲んでいないのに道具の効果が現れているような、そんな日々だった。
けれど後の人生を左右するような出会いもこの頃にあって、例えばこの2年後に僕が加入する事になるピコピコニューウェイブバンド「ピノリュック」のライブを初めて見たのもこの時期だし、以前日記にも書いた、僕と同い年の女の子、Oさんがベースを弾いている伝説のガレージバンド「むらさき」のライブを見て、その圧倒的なステージにショックを受けてゲロを吐きそうになったのも確かこの年の春先の事だ(Oさんについては「007 ここがヘンだよ俺以外(ベーシストOさんの話)」を参照の事)。
そして2005年9月、むらさきのライブが池袋で行われる、という情報を入手し、ライブも見たかったし、池袋なら東上線で一本で行けるからな、という理由で、僕は久しぶりに外出というか部屋の外へと出たわけである。
池袋駅北口から歩いて数分のところにライブハウス「池袋 手刀」はある。所謂ちゃんとしたライブハウスというものに行くのはこれが初めてだったので、少し緊張しながら受付でお金を払い、地下のステージへ続く階段を降りていったような記憶がある。
確かこの日、むらさきは1組目だった。見るのは2回目か3回目くらいだったけれど、相変わらずバンドとして完成されていて「これが同い年の人が出す音なのか……」と落ち込んだ。余談だけど、この時かその次に見た解散ライブで販売していた音源を買ったのだけれど、これがまた素晴らしい出来で、そこで僕はまた落ち込んだのであった。
さて、むらさきのステージが終わったが、チケットを見るとあと4組のバンドが出演するらしい。ここで帰るのはもったいないので、せっかくだから残って全ての出演者を見ることにした。
結果的にその判断は大正解だった。この日はそうそうたるメンツが集まっており、他にプラハデパートが出演し、トリはまだ太鼓を叩きながらのパフォーマンスを行っていた死神さんで、その今まで見た事のない世界に、僕は完全に脳天を吹き飛ばされたのであった。
そして一番ショックを受けたのが、トリ前に出演したバンドである。幕が上がると、そこには4人のメンバーがいた。長髪のフロントマンと超ロングのモヒカンのギタリストは2人ともSGを持っていて、やはりSGのベースを持っている女性ベーシストは口元を布切れで覆い、ずっと後ろを向いていた。同じく長髪のドラマーは確か上半身裸で、僕はその4名の風貌を見て「恐ろしいバンドが出てきたぞ」と思い、そっとフロアの後ろの方に下がった。この頃僕はなぜだかわからないけれどライブハウスに出ているバンドに対してやたらと怯えていて、前の方で見ていたら殴られる、と思っていたのだ。もちろんそんな事はないのだけれども。
しかし演奏が始まった途端、僕は一気にそのステージに引き込まれ、気がつけば少しずつ前へ、前へと移動しており、最終的にはフロアの真ん中の、かなり前の方でライブを見ていた。
とんでもない爆音の中、極めて日本的な湿り気を帯びたフレーズを弾く2本のギターが絡み、その上に歌謡曲のような歌メロが乗る。音がでかすぎて歌詞がまるで聴き取れなかったが(この時は「ライブハウスとはこういうものなのか」と思っていたけれど、後で色々話を聞いてみると、この日はPAの腕前が良くなく、とにかくやたらと外音を上げて音のバランスがメチャクチャになっていたらしい)、そのドロドロとした、底なし沼に片足を突っ込んだような音楽に僕はやられてしまった。
そのバンドこそが、例のKの前身バンド、中学生棺桶なのであった。
そこで僕の人生は大幅にねじ曲がった。それ以降僕は中学生棺桶目当てでライブハウスに通うようになり、そこで色々なバンドを知った。中学生棺桶のフロントマン、葉蔵さんは、ソングライティング能力も優れているが、良いバンドを探し当てる嗅覚が極めて高く、中学生棺桶企画のイベントは毎回ハズレ無しの素晴らしい日であった。例えば、現在はもはや飛ぶ鳥を落とす勢いで活動を続けている股下89やクウチュウ戦、優れた音楽的才能をもつ3名が集まった奇跡のグループ、殺生に絶望、現在曇ヶ原でもギターを弾いている山田くん率いる「機材を大事にするのに誰よりも恐いハードコアバンド」EmilyLikesTennisといったバンドは、全て葉蔵さんの企画で知った。
僕が勝手に思っている事だし、本人にそういう話をすると嫌がられるかもしれないけれど、僕は中学生棺桶は確実に「あの頃のあのシーン」を牽引していた、と思う。

その後中学生棺桶はメンバーチェンジによって名前を「例のK」と変え、その後またメンバーチェンジを行い現在の鉄壁の5人編成となった。
一方僕はと言えば、2007年ごろからいくつかのバンドに所属し、2010年にようやく弾き語りの形態で曇ヶ原を始める。その後色々な試行錯誤や停滞していた時期を乗り越え、2013年夏にバンド編成となって東京藝術大学の学園祭で初ステージを披露したのであった。ここに来てようやく、スタートラインに立てた気がする。
さて、スタートラインに立った後は、何かの目標に向かって活動をしていかなければならない。その目標を僕は、3月に行う自主企画に設定した。スリーマンで1組持ち時間は50分。共演者として招いたのは、圧倒的なステージングを展開する、ハードでソリッドなバンド、股下89、そして、上述の例のKである。
股下89もそうだけれど、特に例のKとは一度どこかで「勝負」をしなければならないと思っていた。もちろん我々はまだキャリアもないペーペーのバンドで、力量などは歴然の差だが、それにしても一度同じステージに立ちたかった。それが僕達が、というより僕が、9年前から走り続けているトラックから、新しい周回に入るために必要な事だと思ったからだ。
そうして思い切ってこの企画を立案した。諸事情によりだいぶバタバタしてはしまったが、年が明けて以降は特にこの企画のために精力を注いできた。アレンジの余地はあるが新曲も作った。デモ的な形だけれども音源も制作した。準備万端、とはとても言えないが、あとは企画当日を待つだけである。
そして企画当日、冒頭のような事があったので僕は大いに慌てた。我々の企画で例のKの最期を締めくくって良いのだろうか、という思いもあった。しかし全ては決まった事だ。あとはこのイベントを素晴らしい日にするだけである。

そして自主企画「電線と革靴 Vol.2」は終わった。股下89は相変わらず素晴らしいステージだった。完璧なリズム隊の上にかなさんの異常なギター、そしてあじまさんの圧倒的な歌が乗り、もはや非の打ち所なしである。さらにあじまさんがギターを弾くもんだから、かなさんのギターがもっと自由奔放になっており、とんでもない事になっていた。普段ならこれを見て落ち込むが、ライブ前の異常なテンションだったので、そのステージを見て、よし、おれも頑張るぞ!と、余計に気合が入った。
曇ヶ原は、まああんな感じです。しかし少なくとも我々のやりたい事は伝わったと思うし、あとは曲の精度を高めるだけである。そして僕は長い事自分の声にコンプレックスがあったし、今でもそれは拭いきれないのだけれども、色々な人に歌を褒めてもらって救われる思いであった。
そしてトリは例のK。50分ひたすらストイックに演奏を行い、しかしお客を楽しませるエンターテイメント性も忘れず(マイクに添えられた"菊の花"を葉蔵さんがムシャムシャと食い散らかす様はさすがであった)、そして終わった。しみったれたMCもアンコールもない、非常に例のKらしい最期だった。

ところで、例のKの解散宣言はイベント当日に発表されたのだけれど、それに対してはバンド内で厳重な箝口令が敷かれていたようで、誰も例のKが解散する、という事を知らなかった。僕も、曇ヶ原のメンバーも、そして例のKのメンバーが別にやっているバンド、ユニットのメンバーも知らなかったようである。それはやはり「解散だからと言って変に仰々しくしたくない」という事なのだろうと思う。
案の定Twitterでは突然の解散を惜しんだり、なかなかライブに行けなかった事を悔やむ声が多々あった。それについては僕も全く同意だし、そもそもここしばらくなかなか例のKを含む他人のライブに行けなかったので、あまりどういう言える立場ではないのだが、それにしても僕は、そういった話を聞く度に、コーパスグラインダーズのZERO氏が、昨年急逝した吉村秀樹について語っていた記事を思い出す。

ZERO:ツイッターで追悼、追悼…って騒いでたヤツらに俺は言いたいんだよ。「お前ら、ブッチャーズのライブに友達を1人でも連れて行ったのかよ? そうやって輪を広げようとしたのかよ!?」って。ようちゃんはそういうことを願いながらステージに立ってたんじゃないかと俺は思うし、「惜しい人を亡くした」なんて言うヒマがあったら、1人でCDを100枚買ってやれよ! って思うよね(笑)。

Co/SS/gZ[コーパス・グラインダーズ](Rooftop2014年3月) - インタビュー | Rooftop

もちろんみんな生活があるし、仕事や学校の都合もあるから、誰もがいつでもライブを見に行ける環境にいるわけではない、という事はわかっている。
それにしても、だ。それにしても、僕は解散してから「もっとライブ見たかった……」とか「辞めないで!」とか言い出す人を見ると、「だったらもっとライブ見に来いよ!」と思ってしまう。暴論なのは自分でもわかっているが、けれども、今更そんな事を言っても遅いのだ。バンドが解散してから悲しんでも手遅れだし、人が死んでから「あの人はいい人だった……」とか言い出す奴はろくなもんじゃない。だったらバンドが存続しているうちに、その人が生きているうちに、もっと大事にしろよ、と思うのである。これは自戒や悔恨の念を込めて言っている。
何はともあれ、例のKは解散した。それはもはや揺るぎのない事実であるし、周りの者がとやかく言っても仕方がない。解散したいから解散する。ただそれだけの話である。
それにしても、どうも湿っぽい性格をしている僕は、ライブ翌日電車に揺られながら、例えばうっかり中学生棺桶の音源なんか聴いてしまうと、どうも涙腺が緩んでしまうのである。

例のKのサイトには「最終回」のイラストと共に、バンド解散の声明が掲載されている。メンバーのその後はバラバラのようである。別のバンドを続ける者、バンドはしばらくやらない者。しかし、バンドを辞めるのも自由だし、やりたくなったらまた始めるのも自由である。一生音楽をやらない、ライブハウスには近寄らない、と決まったわけではないので、まだどこかで、皆さんとお会いできる事を、楽しみにしています。我々もその日まで頑張り、願わくば、我々もまた田舎の高校生の人生をねじ曲げる事のできるようなバンドになりたいと思っています。

短い間でしたが
ご静聴ありがとう
ございました

例のKは
志なかばにして

「例のKとしての活動限界」
及び
「例のKとしての自己嫌悪」
の「束」を迎えたため

「おしまい」と相成りました

どうかご理解
または
どうぞご曲解ください