014 19歳から26歳へ(たまコピーバンドの思い出)

去年の秋頃の話だ。僕のやっている曇ヶ原というバンドの今後をどうするかという打ち合わせをするために、メンバー一同で西荻窪の喫茶店に話し合いの席を設けた。
その時はギタリストのヤミニさんが脱退するという話だったので、後任を誰にするかとか(結局色々ありヤミニさんは今年の夏まで続けてくれる事になった)、音源を作ろうとか、どういったところでライブをやるかとか、まあそういった事をメンバーと、ああでもないこうでもない、とやっていたのだった。
話し合いは終わり、ヤミニさんは当時所属していたバンド「例のK」のライブがあるのですぐ近くのライブハウスへ向かい、ドラムスのようたんは家に帰り、残った僕とキーボードのあつみちゃんは、せっかく西荻まで来たんだから、元たまの石川さんが運営している雑貨屋「ニヒル牛」へ行こう、という話になり、二人でモタモタと西荻窪の街を歩いていたのだった。
あつみちゃんは19歳の現役音大生で、彼女が高校生の頃に参加した単発のインプロバンドで知り合い、受験が終わったタイミングで曇ヶ原へ勧誘したのだ。たまと森田童子あがた森魚が好きで、音楽の話をしていると特に年齢差は感じないのだけど、思いがけないところでジェネレーションギャップを感じ、そう言えばおれはあつみちゃんと7つも年が離れているのだなと気付き、愕然とする。
ともかく僕とあつみちゃんは西荻南にあるニヒル牛へと向かったのだが、歩いているとどうもこの道は以前歩いた覚えがある。ニヒル牛にはお店が開店した直後に1度行ったのだけれども、それとは別に、何かでこの通りを歩いたような……。
そう思い足りない頭を振り絞り、消えてなくなりつつあるかつての記憶を手繰り寄せていると、唐突に思い出した。確かに僕は以前、この道を歩いた事がある。それも、僕がちょうど19歳になったばかりの頃に。

僕がどんなにしょぼくれた高校時代を過ごしてきたかという話は、もはや散々ここでしてきたので今更いちいち書かないけれど、あれは僕が死ぬほど「さっさと終わってくれ!」と思っていた高校生活がようやく終わってくれた頃の話だ。
当時インターネットでは、2014年現在ではもはや死に体となってしまったmixiが「ヘンな大人達が集まって何かよからぬ事を企んでいる場所」として機能していた。あの頃のmixiは確か18歳未満の参加は禁止されていたのだけれど、僕は年齢を隠してこっそりと潜入し、わけのわからぬ長文の日記を書き散らしたり、好きなバンドのコミュニティに参加して色々な方々と情報交換をしたり、そこで知り合った方に雑誌の切り抜き記事とか貴重な音源等を頂いたりとか、そういった事をしていた。
そしてちょうど僕が大学受験が終わった頃、mixiのたまコミュニティで、「たまのコピーバンド」というトピックが立ち上げられた。確か最初に書き込んでいた人は関西の方だったのだけど、途中から関東に住んでいる人の書き込みが増え、では一度東京でバンドをやれそうな人達で集まりましょう、という流れになったような記憶がある。
これも完全なうろ覚えなのだけれど、確かギターや鍵盤、ドラムの人はいたのだけれど、ベースだけ席が空いていたので、どういうわけかその頃は極度の対人恐怖症であった僕が「ベース弾けます!」と大きな声で元気よく名乗りを上げた、ような気がする。
ただ、当時は高校時代の3年間を無人島で過ごしていたような具合だったので「このまま人間と交流を取らないでいたら、あたしもうぢき駄目になる!」と、もう既にダメになりつつあった頭で考えていた事は、なんとなく覚えている。失礼な話だけど、いわば「真人間になるためのリハビリ」の一環として、バンドに参加しようと思っていたのではなかったか。
そんなわけでその直後、mixiで声明を上げた方々と高円寺の喫茶店でお会いした。あの頃の僕は髪を肩まで伸ばした上に髭を生やしているという「はっぴいえんど時代の細野晴臣から才能を全部取ったような」出で立ちをしていたので、他の方々もギョッとしただろう。それでいて18歳とか言ってるんだからふざけているにも程がある。
ともかくそこで顔合わせをした後、確か御茶ノ水のスタジオで何曲か演奏をしたような気がする。
それからしばらくメンバーが入ったり抜けたりをやった後、最終的な編成は、ギター2名、ベース(僕)、ドラム、鍵盤やギター色々、ウクレレ、の6名となった。僕以外は全員20代後半の方々で、演奏もしっかりしており、なによりたまに対する造詣と愛情が強く、埼玉の片田舎で人間と接していない日々を過ごしていた僕は「こういう真摯な人々がこんなにもいるとは!」と大いに感動したのだった。

メンバーの人々は、こう書くと怒られそうだが「ヘンな大人」ばかりだった。ドラムの女性は普通の人(こう書くのも失礼だな)だったけれど、他の方々はなかなかに強烈なインパクトを持っていた。
リードギターのNさんはたまとはっぴいえんどビートルズフリークで、リッケンバッカーのギターを駆使してたまの様々な曲を弾きこなしていた。この方はかつて石川さんのサイトに数多くの投稿をしていて、mixiでこの人の名前を見た時「あっ!おれこの人知ってる!」と驚いたものだった。たまのライブにも頻繁に通っており、スタジオで曲を演奏する際にも「この曲はライブではこういうアレンジだった」という意見を多く出して頂いた。
もう一人のギターのAさんはNさんの大学の同級生で、たまファンだという事で意気投合し、以来長い付き合いであるという。最初はスタジオに遊びに来ていただけなのだけれど、確かコピーバンドの発起人の方が諸事情でバンドを続けられなくなってしまい、その代わりに加入となった気がする。違っていたらすみません。アコースティックギターにベース、たまにピアニカや鳴り物など様々な楽器を演奏し、そして何よりユーモアと温かみのある人であった。
鍵盤類やギター等を担当するTさんは、マルチプレイヤーでとにかく抜群の演奏力を持っており、パーカッション以外なら1人でたまの曲を再現する事ができるとんでもない人だった。毎回車に様々な楽器を積んでスタジオへ来ていたが、コントラバスを持ってきた時は驚いた。耳コピが趣味らしく、よくスタジオの休憩時間に色々な曲をピアノで弾いていた。ちなみに僕は中学時代、Tさんが大学生の頃に運営していた、たまやみんなのうたMIDIを公開するサイトを熱心に見ていた。この話を本人にすると嫌がられるけれど。
ウクレレのUさんはリアルタイムでたまを追っかけていた、今で言う「バンギャ」のような方で、昔の思い出話や貴重な話をよく聞かせて頂いた。今でも上がっていると思うけれど、イカ天のたま特集の映像にファンとして写っているという話を聞いた時は本当にびっくりした。サブカルチャーの知識にも長けている人でおり、色々な音楽や漫画、映画もこの方から教えてもらった。

こういった錚々たる顔ぶれでたまのコピーバンドは3年ほど活動を続けた。全員が楽器も弾けて歌も歌え、コーラスも取れるという、かなりクオリティの高いバンドであったと思う。
一方その頃の僕と言えば、完全に足を引っ張っているような状態で、ベースも歌もヘタだし、他の方々と比べるとたまに対する知識はあるけど圧倒的に体験が足りていないし、というような感じであった。そして今にして思えば、そういう卑屈な態度もよくなかった。その上連絡もあまり返さないしスタジオもちょいちょい飛ばすし、本当にあの頃の事を思い出すと反省するばかりである。
それでも月に1回のスタジオでの練習は楽しかった。好きなバンドの曲を素敵なメンバーと楽しく演奏する。ライブをやらない趣味のバンドであり、もっと言えば「お遊びのバンド」という事になるのかもしれないが、こんな高度なお遊びなら僕は、お遊びでいいじゃないか、お遊び万歳、と思う。
各々の生活が忙しくなり、様々な理由でバンドは自然消滅に近い形で終わってしまったが、もしまたメンバーが揃うのであれば、またスタジオで音を出してみたい。僕のベースも少なくともあの頃よりマシにはなっているとは思う。
ちなみにあの頃僕は歌にまるで自信がなかったので、僕が歌う曲はほとんどなかったが、1曲だけ、ろけっとに収録されている「寒い星」をベースを弾きながら歌った。Nさんは歪ませた単音のフレーズを弾き、Tさんはセミアコのギターにコーラスをかけてアルペジオで12弦ギターのような音を出し、なんだかレディオヘッドみたいなアレンジになっていた覚えがある。

いつだか西荻窪に住むウクレレのUさんの家に、NさんとAさんと遊びに行った事がある。確か夜通したまのビデオやNさんの持ってきた探偵ナイトスクープのDVD、それとUさんが持っていた「太陽を盗んだ男」を見て、翌日みんなでニヒル牛に寄って家に帰った。19歳になりたての僕は、ふらふらした頭で西荻窪の道を歩きながら「うわあー楽しいなあ―!」と、まるでバカみたいな事を思った事は、極端に記憶力が欠落している僕でもよく覚えている。

そしてあれから7年である。19歳だった僕は26歳になって、あの頃の僕と同じ年齢である19歳のあつみちゃんを連れて、あの頃のように西荻窪の道を歩いている。そう言えばあの時NさんとAさん、そしてTさんも26歳か27歳くらいで、今の僕とほとんど変わらない年齢であったと思う。
あの頃僕は、バンドのメンバーに対して「みんな大人だ!」という印象を持っていたが、果たして僕はちゃんとした26歳になれているのだろうか。19歳だった僕を引っ張ってくれたみんなのように、19歳のメンバーを引っ張る事のできる大人になっているのだろうか。
古谷実の漫画じゃないけれど「立派な大人になりたいなあ……」と思いながら、小雨が降りつつある西荻窪の街を、モタモタと歩いていたのであった。