008 笹塚のシンガーソングライター

昨夜、下北沢のリンキィディンクスタジオで行われたオールナイトのイベント「みんなの戦艦」を見に行った。目当ては股下89で、ライブを見るのは久しぶりなのだけれども、相変わらず凄まじい演奏をしていた。4人全員バラバラの方向を向きながら演奏をしているのに、その内容は極めてソリッドで、溢れんばかりの殺気に拍車がかかっていた。スタッフの方が動画を撮っていたけれど、僕は最前列でクネクネしていたので、映っていたら恥ずかしいなと思う。

「みんなの戦艦」は23時30分オープン、24時スタートの夜通し行われるイベントで、終演予定時刻が股下89の出番はトップバッターだった。最近体力の衰えをとみに感じているので、とても朝まで居られないなと予め判断していた僕は、会場まで自転車で行くことにした。これなら終電がなくなっても帰る事ができる。道を調べてみると、やや遠いけれども決して行けない距離ではなく、行き方自体も中野通りにさえ出てしまえば後はまっすぐ南下していくだけなので、道に迷うという事もない。そう思って僕は、家から40分ほどかけて、下北沢まで向かったのだった。
中野通りに出て、新中野を過ぎ、神田川を越え、さらに道を進むと京王線にぶつかる。ここを過ぎればもう世田谷区なので、会場まであと少しだ。
甲州街道の横断歩道で信号待ちをしている時、ふと上方を見上げれば「笹塚」の文字があった。そうかここが笹塚なのか、隣りが幡ヶ谷でもう一つ先が初台という事は、電気グルーヴが結成したデニーズや、卓球や瀧が昔住んでいたところもこの辺りなのかな等と思っているうちに、なにやら「笹塚」という単語から古い記憶が蘇りそうな予感がした。けれどその時は何も思い出せず、再び自転車を漕ぎ下北沢へ無事到着し、ライブを見て、早くも体力に限界が見えてきたので早めに帰宅したのだけれど、再び甲州街道を渡ろうとした時、僕は突然昔の事を思い出した。
「そうだ、笹塚と言ったら、あの恐怖のミュージシャンが住んでいる街じゃないか」

遡る事10年前、あれは2003年の秋口だった。その頃僕は高校1年生で、まあ何度も何度もこの日記に書いてある事だけど、高校に入学した辺りから僕の性格はとんでもない速度で暗くなり、学校に友達はおらず、先輩に薦められて入部した吹奏楽部も3ヶ月であっさり辞め、夏休みが終わって学校が始まったはずなのに「ぼくのなつやすみ」は終わらず、部屋に引きこもって「山田花子 自殺直前日記」を読んで涙するといった、地獄のような日々を過ごしている真っ最中だった。
そんなある日の事だった。どういう経緯でそうなったかはよく覚えていないが、ある時突然「そうだ、曼荼羅に行こう」と思い立ったのだった。曼荼羅とは1974年に吉祥寺にオープンした老舗のライブハウスで、たまがメジャーデビュー前からホームとして活動していた場所である。
確か僕はあの頃、学校にも行かず自室に篭って本を読んだり音楽を聴いたりばかりしていたのだけれど、そんな生活を延々としていたらさすがに頭の調子が狂い始めて「このままでは気が狂って孤独死する!」と怯えていたのだった。そのためにどこか外部の世界に触れようと思っていたのだけれども、何しろ埼玉の片田舎に住んでいる右も左も分からないしょぼくれた高校生だったので、漠然と外の世界へ!と思ってはいたけれど、その外の世界とはどこなのか、という事が全くわからない状態であった。
そんな時思い出したのが吉祥寺曼荼羅の事である。たまがずっとライブをやっていた場所なのだから、きっとそこに行けば何か面白いライブとか、おかしな人とか、表現衝動のカタマリみたいな人に会えるはずだ!そう思って僕は早速曼荼羅のサイトを開き、スケジュールを確認したのであった。
しかしそこで問題が起こった。どのライブに行っていいのかわからない。
2003年という時代は当然YouTubeなどという便利なものはなく、一般のネット回線事情もようやくADSLが広まり始めたという頃だったので、動画はおろか音源ファイルさえ公開するのを躊躇われていた頃だった(確か2000年頃に買ったホームページの作り方という本には「写真は重くて迷惑なので使わないようにしましょう」という事が書いてあった)。そもそもあの頃はまだアマチュア音楽界隈にネットが完全に浸透しておらず、バンドとか弾き語りをやっていて自分のホームページを持っている人というのはまだまだ少なかった。なのでスケジュール欄に載ってる名前で検索をかけても、ほとんど情報が出てこず、誰がどんな音楽をやっているのかもわからず、またチケット代も2000円くらいしたので、貧乏な高校生には敷居が高かった。知らない人のライブを見に行って、それがハズレだったらどうしよう、というわけである。
そういった理由で尻込みをしていたのだけれど、スケジュール表を上から下へと見ていると、ある日の予定に「飛び入りライブ」と書かれている。説明もついていて、どうやらこの日は2杯分のドリンク代さえ払えば誰でもステージに立つことができ、一般の観覧者はドリンク1杯で入場する事ができる、というシステムであるらしい。持ち時間は1人10分で、17時から22時まで開催されるという話だ。
僕はそれを見て「これだ!」と思った。これなら1回で色々な人のライブが見られるので、きっと中には面白い人がいるはずで、例えハズレがあってもあまり大きなダメージを負わないだろうというのと、もうひとつは入場料が安いのでお金のない僕でも気軽に見に行ける。そしてスケジュールを見たら、今月はもう数日後に飛び入りライブが開催される。これを逃す手はない、と思い、僕はライブ当日、埼玉から吉祥寺まで向かったのだった。
しかし先述したように、当時の僕は埼玉県の、急行が止まらない私鉄沿線の農村を開拓してできたベッドタウンに住む田舎者の高校生であって、埼玉の植民地である池袋くらいなら行った事はあるけれど、山手線以外のJRにはほぼ乗った事がないといった具合だった。そして吉祥寺は思っていたより遠い。土地勘もないのでどこに何があるのかわからない。心細い。淋しい。怖い。といったマイナスワードが次々と飛び出してきて、僕の心をしぼませた。
そこでどうしたかというと、僕はその頃吉祥寺の高校に通っていたMという友人を誘う事にした。高校内では全く友達が居ない僕だけれど、学校の外には辛うじて何名か友人がおり、Mもそのうちの1人だった。彼とは通っていた英語塾で知り合い仲良くなったのだけど、しかし僕も彼も全く成績が伸びず、後に2人揃って塾を辞め、彼はその後昭島の方へ引っ越して行きやや疎遠になっていたのであった。しかし高校に入った辺りからまた連絡を取るようになり、今回も「吉祥寺にライブを見に行かない?」と誘うと、彼は二つ返事でOKをくれた。
そうして僕はMと吉祥寺駅で待ち合わせをして、曼荼羅へと向かった。ライブハウスなどという所には行った事がなく、派手とかうるさいとかそういった漠然としたイメージしか持っていなかった。なので、最初は曼荼羅の入り口である狭く細い階段を見落としていて、一体曼荼羅はどこにあるんだと2人で吉祥寺の街をウロウロさまよい歩いていたのであった。
地図を頼りにして何とか曼荼羅を探し当て、まずその地味な入り口に驚き、中に入ってその狭さにまた驚いた。今にして思うとライブハウスとしてはまあ狭い部類に入るが、別に特別狭いというわけではないのだけれど、あの頃はライブと言ったらクラブチッタとか紀伊国屋ホールとか、そういう大きなところでしか見た事がなかったので、まずそこに衝撃を受けた。
少し早く着きすぎてしまったので、椅子に座り、久しぶりに会ったMに近況を聞く。彼は中学生の頃からボーリングをやっていて、いつかはプロになりたいと言っていた。高校に入って地元のボーリング場でアルバイトをしていたのだけれど、そこの店長と折り合いが悪く、まだ始まってもいないのに早くもボーリング人生に暗雲が立ち込めてきた、という話をしていた。僕は僕で高校に入ったら全く友達ができず、1日のうちに声を出す時間が10分くらいしかないとか、おれの教室での地位は黒板消しより低い、あいつは字を消してくれるからね、とか、そんな話に終始して、ついに明るい話題は何一つ出なかった。
吉祥寺まで来てなんでこんな暗い気持ちにならなきゃならんのだ、と思っていると、客席の照明が落ち、ステージに司会進行の方が現れ飛び入りライブが始まった。最初にいくつかの説明をした後、いよいよ1組目の人の登場だ。この聖地、曼荼羅で一体どんな面白いライブが見られるんだろう?
そう思っていると、ステージ上にギターを持った男性が現れた。
「どーも初めまして、笹塚からやって来ました」
と話すと、客席にやや笑いが起こる。Mも「また微妙なところから来たな」と言って笑っている。しかしあの頃の僕にとって笹塚とは聞いた事もない地名で、もはや海外に等しい場所であった。
こっそりとMに尋ねる。
「笹塚ってどこ」
京王線が通ってるとこだよ」
京王線ってどこ走ってるの」
「新宿から高尾まで走ってるよ」
「で、笹塚ってどこなの」
「……とにかく、説明しづらいとこだよ」
彼は説明するのを諦めたらしい。僕もそれで納得した。
そんな事をやっているうちに曲が始まった。アコースティックギターでメジャーコードを軽やかに鳴らす。やけに爽やかな出だしだなと思っていたら歌が始まったのだけれど、その歌詞の内容が「好きだった先輩が卒業しちゃうよ〜」「想いを伝えないといけないけど勇気がないよ〜」というようなもので、僕は思わず顔が曲がった。僕は隣りに座っているMにそっと耳打ちする。
「何この気持ち悪い歌……」
「言うなよ……」
彼もまたうんざりした顔をしていた。
ここに来て僕は、壮大な思い違いをしていた事を知る。いくらたまが頻繁にライブを行っていたライブハウスだからといって、たまのような人が頻繁に現れるという事は決してなく、むしろたまの4名は類まれな才能を持ち合わせていたから大きな注目を集めていたわけであって、たまではない大多数の人達は普通の人で、ライブハウスにはそういった普通の人が出演しているケースが大半を占めているわけだ。今考えれば当たり前の話なのだけれど、あの頃はライブハウスの実状をよく知らず、過剰な期待を抱いていたフシもあった。なのでその背筋も凍る恐怖のシンガーソングライターの演奏が終わった後も、「……まあまだ始まったばかりだし、これから色々な人が出てくるんだよな」と思っていた。
確かに僕の予感は当たった。その後も色々な人が次から次へと出てきた。悪い意味で。
ろれつの回らない口ではっぴいえんどの「春よ来い」を歌うおじさん(間違える度に演奏が止まってやり直す)、ZABADAKの出来損ないみたいな曲をピアノの弾き語りで歌う「妖精ゆかりん」(とんでもない人だったので名前をちゃんと覚えている。音大生とか言ってたけど今は何をしてるんだろう?)、メンバーが居ないからという理由で、ドラムがリズムマシンのヘビメタバンド(演奏がめちゃくちゃで、一番うまいのがリズムマシンという悲惨な状態だった)、などなど、他にもよく覚えていないけれど、まあそんな感じのステージは延々と続き、僕の顎はどんどん外れていった。隣りにいるMも渋い顔をしている。無理やり連れてきて申し訳ない、という思いでいっぱいだった。
しかしそんな中でも何組か面白い人はいた。特に印象に残っているのは、「マッチ売りの少女が燃えにくいマッチを発明して特許を取ったけど、ライターの台頭により業績が伸び悩む」とか「うんこ投げ合戦、うんこをぶつけ合え、けれど最後に勝つのはクソにまみれていない高みの見物を決め込んでいた奴」という、ヘンテコな歌を歌う人だった。強烈過ぎて印象に残っている人と、あまりよく覚えていない人ばかりが出演するイベントの中で、この人の事だけはよく覚えている。
確かこの日は全部で15、6組の人が出演していたと思う。ライブを見終わって会場を出た僕は、「面白い人というのは、これだけたくさんの人がいても、そのうちの1人か2人なんだな」という事を悟ったのであった。

そんな事を突然思い出したのだった。あれからちょうど10年である。あの時ステージに立っていた人は何をしているんだろうと思い調べてみると、笹塚在住の恐怖のシンガーソングライターはまだ活動を続けていて、また当時使っていた芸名から本名に戻していた。最初はここでそのふざけた芸名込みで書こうと思っていたのだけれど、今もやっているとなると余計な軋轢を生みそうなので名前は伏せる。今も笹塚に住んでいるかどうかはわからない。
マッチ売りの少女とかうんこ投げ合戦といった奇抜な歌を歌っていた人は、調べた結果どうやら「一戸康太朗」という方で、こちらも今でも弾き語り活動を行っている。YouTubeに動画も上がっていた。

幸いな事に妖精ゆかりんは検索しても出てこなかったので、ほっと胸を撫で下ろした。あの頃20歳くらいだとして、今三十路である。30歳にもなって妖精を名乗っていたらこんな悲劇はないだろうと思っていたのだけれど、どうやら活動はしていないようなので一安心だ。
最後に、あの時一緒にライブを見に行ったMだが、彼は途中音楽の道に走り、家に遊びに行ったらシンセや機材が大量に置かれていたのだけれど、その後軌道を修正し本来目指していたボーリングの世界に舞い戻り、今年めでたくプロ入りとなった。最近連絡を取っていないから近況はわからないけれど、多分プロボウラーとしてモリモリ活動をしているのだろう。しかしネットに上がっている彼の写真を見たら、あごひげを蓄えゴリラのような顔になっていて驚いた。中学生の頃は背も低く、声変わりも遅かったので、電話だと女の子と話しているような気持ちになったのだけれども。あれから10年。変わらない事は素晴らしいとは思うけれど、見た目の問題という観点で考えると、そりゃ10年も経てば人は変わるよな、どう考えても、という結論に達したのであった。