015 ドラえもんはお前らがネットで暴れるためのガソリンではない(ネタバレもあるよ!)

「STAND BY ME ドラえもん」のCMを見てから嫌な予感がしていた。「いっしょに、ドラ泣きしません?」という鼻持ちならないキャッチコピーからは、もはや感動の押し売りしか感じられないからだ。
大体僕はここしばらくの「ドラえもんとは感動的な漫画だ」という風潮が気に入らない。あのなあ、ドラえもんは確かに感動的な話もあるけれど、それはドラえもんの中の一要素でしかなくて、他にももっとメッチャクチャなギャグ回や、戦争批判、環境問題にをテーマにしたシリアスな話もあるからね(またそれだけを持ちだして「ドラえもんは社会的な漫画である」と言われるのも虫酸が走るけれど)!それだけ懐の深い漫画なのに、その中の一番てっとり早くてキャッチーな部分だけを抽出して、何が「ドラ泣き」だ。これでまたTwitterFacebookに「彼氏とドラえもん見に行きました!途中泣いちゃったのバレてないかな?」等というヘドが出そうな投稿が山のようになされるんだろうな。うるせえうるせえ、ドラえもんはお前らのFacebookの肥やしじゃねえんだよ!
……という悪口をブログやTwitterに書きまくるぞ!と意気込んで「STAND BY ME ドラえもん」を、それも公開初日である先週金曜日の夜に見に行ったんだけど、まあ泣いちゃいましたよね。ヲンヲン泣いた。その模様をCMで流される日も近い。「ドラえもん大好き!」だって。アホか。
しかし実際映画を見た感想としては、良かった。思ってた以上に良かった。前情報からは不安の要素しかなかったけど、内容もほぼ原作に忠実であり、感動のゴリ押しかと思いきや前半にはちゃんとおふざけ回の話も採用されており、きちんと「子供向け漫画ドラえもん」の体がなされていた。ところどころに挟まれる小ネタ(未来の世界で大人になったジャイアンの部屋に「乙女の愛の夢」のレコードが飾られていたり、「あばら谷ホーム」の看板が出ていたり)も僕のオタク心をくすぐった。もちろん一言言いたい点はあるけれど、総じて見ると良い映画なのではなかったか、と思う。なんだ、これじゃ悪口書けないじゃん、というクズ人間の極みのような事も思った。

ところが、である。先日Twitterを見ていたらまとめブログの記事のリンクが流れてきた。例によって「映画ドラえもんが改悪wwwww」みたいなどうしようもないタイトルである。気にはなるのでリンクを開いてその記事を読んでみたら、まあ不平不満の嵐。だがしかしこれは仕方がない。僕がいくら納得したって、他の人は映画の内容に満足できなかったのだとしたら、その人の口を塞ぐことはできない。みんなジャンジャン思った事を言うべきである。
しかしヒドかったのはその不平不満の内容である。僕から見るとその9割が的外れもいいところで、そしてそういう人に限って「F先生が見たらなんていうかな?」みたいな事を言うのである。さも自分が「俺はF先生の気持ちを"わかってる"」と言わんばかりに。
というわけで、僕はここで「ドラえもんはお前らのFacebookの肥やしではない」改め「ドラえもんはお前らがネットで暴れるためのガソリンではない」と題して「『STAND BY ME ドラえもん』への批判への批判」をしたいと思う。誰にも頼まれてないのに。大きな声で。元気良く。

一番多かった批判が「成し遂げプログラム」へのものである。これは映画オリジナルの設定で、そもそもドラえもんのび太のお世話なんかしたくなかった、早く未来に帰りたかった。それを封じるためにセワシくんがドラえもんに「成し遂げプログラム」を埋め込み、「未来に帰りたい」と口にすると、体に電流が流れてお仕置きをする。その代わり、「のび太を幸せにする」という当初の目的が「成し遂げ」られたら、今度は逆に「帰りたくない」と口にすると体に電流が走る、というものである。
これに関して批判は2種類ある。まず1つは「ドラえもんは自分の意志で未来から来てのび太と友達になったのに、それを『成し遂げプログラム』という独自の設定によって、原作にあったドラえもんのび太の関係が損なわれている!」というものだ。確かにその気持ちはわかる。そんな設定を新たに取り入れる必要性があったのか?と。
しかし映画を見ると、成し遂げプログラムの存在は最初と最後に出てくるだけで、他のシーンにはほぼ出てこない事がわかる。成し遂げプログラムの設定が登場するシーンはどこかというと、ドラえもんセワシくんに連れられて未来からやってくるシーンと、最後の「のび太が幸せになった」事により未来に帰らなくてはならないシーンである。
この「成し遂げプログラム」については、単なる「原作の設定の補強」以外の何物でもない、と僕は思う。何言ってんだ、ドラえもんが無理やり未来から連れて来られたなんてどう考えても原作レイプ(この「原作レイプ」という単語も気持ち悪くてどうしたもんかと思うけれど)じゃないか!という人もいるだろう。
しかし、言うまでもなくドラえもんが未来に帰るシーンは、誰もが知っているあの名作「さようならドラえもん」を下敷きにしている。しかし読んだ事がある人はご存知かとは思うが、この作品ではドラえもんが未来に帰る理由を明らかにしていない。突然ドラえもんが未来に帰らなくてはならなくなった、という事が作中で描かれるのみである。
これをそっくりそのまま映画化したのが98年公開の「帰ってきたドラえもん」であるが、今回は色々な短編のエピソードを並べて1つの映画にしているので、そういうわけにもいかない。未来に帰るなら帰る理由が必要なのだ(ここで「何言ってんだ!てんとう虫コミックスには長らく収録されていなかったけれど、09年に刊行された藤子・F・不二雄全集の『ドラえもん』に収録されたことでようやく陽の目を浴びた、小学四年生に掲載された最終回ではきちんと理由が書かれていただろ!」と言う人もいるかもしれないが、その話になるとただでさえ長い話がもっと長くなるので、今回は触れないでおく)。
そこで「成し遂げプログラム」という新たなる設定を映画に取り入れたのだ。これによって「どうしても未来に帰らなければならない」理由ができる。そして最初は嫌々来たけれど、徐々にのび太との友情が深まり、未来に帰りたくない、でも帰らなくてはならない、という原作のテイストを再現する事ができている。全く余談だけど、僕は作品冒頭のセワシくんの「帰りたくないって言っても嫌でも帰ってくるようになってるから」というセリフを聞いて早くも泣いてしまった。フライング泣きというやつである。
閑話休題。なのでこの「成し遂げプログラム」については、僕は1つの作品の流れを作る上では許容の範囲内なのではないか、と思う。先程も述べたように、この装置の存在は最初と最後にしか触れられていないので、インターネットの人達が騒ぐ「強制的にお世話をさせられている」という感じもしなかった。そこまで目くじら立てるほどの事ではないのでは?と思う。
そしてこの「成し遂げプログラム」についての批判はもうひとつある。それは「ドラえもんに電流を流すなんて残虐だ!」というものだ。これについては先ほど上げた「F先生が見たらなんていうかな?」とセットで多くなされていた。
しかしこれについては僕は「こんな事言ってる奴は原作とか映画とか見てないんじゃないのか?」と首をひねる。原作ではドラえもんはもっと悲惨な目にあってるからだ。それが最も顕著に現れているのは、93年公開の映画「ドラえもん のび太とブリキの迷宮」である。ここではドラえもんがブリキの軍団に囚えられ、拷問部屋に監禁されてこれでもかというくらい電流を浴びせられる。「お願い……許して……」というドラえもんを無視してどんどん強力な電流を流す兵団。最終的にドラえもんは壊れてしまい、海の底へ捨てられてしまう。余談だけれど、海の底に沈んだドラえもんが「のび太くん……せめてもう一度君に会ってから壊れたかった……」とつぶやくシーンも号泣必至なので、ぜひみんな見た方がいい。しかし余談が多いな。
他にも、おもちゃの兵隊に銃で撃たれて黒焦げになったり、体をバラバラにされかけたり(これは「のろいのカメラ」で作られた人形をジャイ子含む近所のガキに奪われ「お医者さんごっこだ!」と称して包丁で人形を切り刻もうとするものである。最終的には「死んじゃった」と言って埋められる)、とにかく原作でもドラえもんは、インターネット上の良識ある人々の言葉を借りれば「残虐な」目に合ってるのである。それを得意げに「そんな残酷な装置が原作に出てくるわけないだろ!こんなのをF先生が見たらなんて言うかな?」などと嬉しそうに言ってはしゃいでる連中は、原作読んだらショックで死んじゃうんじゃないだろうか。
そしてはたと僕は、どうしてこんな言説がまかり通っているんだろうか、と考えた。その結果、つまり「ドラえもんとは子供向けの良識ある漫画である」というイメージがひとり歩きし、結果そこまでドラえもんを読んでない人もドラえもんに対して「健全」な印象を持つようになり、そこで今回のような原作のテイストに則したシーンを目にすると(そもそもそれ言ってる奴らが本当に映画を見たのかというと疑問が残るが)「残虐だ!改悪だ!」と元気良くインターネットではしゃぎだす、というわけである。いわば彼らも消毒された現代社会の被害者なのだ。
あとびっくりしたのが「ジャイ子の扱いがヒドい!」というものだ。最初っからジャイ子を悪役として描いている、とその人はいうんだけど、でもなあ、今回の映画はまだマイルドな方で、原作の1話なんか、2階から落ちて木に吊り下がったのび太を見て「首吊りだ!ガハハ!」とか言ってるからなあ。映画見て怒ってたら、原作読んだら血圧の上昇に歯止めが効かなくなってしまう。

このように「STAND BY ME ドラえもん」への批判の9割は「原作の意向を無視している!」というものであった。しかし僕は、ここまで原作に忠実な映画もなかなかないもんだと思う。確かに「雪山のロマンス」のストーリーを変えたのは完全なる蛇足であったと思うし、他にもちらほら気になるところはあったが、決してそれは目くじら立てて激怒するような事ではなく、許容の範囲内である、と僕は思う。
インターネットで暴れている人達は免罪符のように「F先生の意向が無視されている!」と口々に喚き立てるが、果たして彼らはF先生のドラえもんを読んでいるのだろうか?その上で言ってるのであれば仕方がないけれど、読みもしないで言ってるのであればやめてほしい。そして、映画を見てもいないのに「なんとなく」で不満を垂れるのはもっとやめてほしい。文句や悪口を言えるのは、それをちゃんと見た事がある人だけだからだ。
ひとつ面白かったのは「のび太としずかちゃんの結婚が目標としているのに、その肝心な結婚式のシーンを描いていなかったからこの映画はダメ」という書き込みがあったことだ。まあさすがにこの人はフザけて書いたんだと思うけれど、ここで結婚式のシーンを入れたらそれこそ「改悪」だ。おいおい、その話いらないんじゃねえの?と僕はTwitterで青筋立てながら大暴れしていたと思う。

まあとにかく、僕はいい映画だと思いましたよ。新作は新作で面白いけど、こういう旧作を忠実にリメイクする作品なら、僕はまた見たいと思う。そして次作も「ドラ泣き」路線で推し進めていくのなら、僕は「ドラえもんだいきらい!?」や、ドラえもんのび太の関係という趣旨からは外れてしまうが「パパだって甘えん坊」も3D映画化してほしいと思う。少し前にテレビの方のドラえもんでこの「パパだって甘えん坊」が放送されたらしく、それを見逃した僕はほぞをかむ思いであった。見たかったんだよなあれ。誰か録画した人見せてください。

そしてもう1つ欲を言うなら、感動とは対局の位置にある、ドラえもんのハチャメチャなギャグテイストをそのまま3Dで再現して映画化してもらえないだろうか。このガスを注入するとどんな痛みや苦しみも快楽に変わってしまう「ヘソリンガス」の回で、のび太がみんなにこのガスを振る舞った結果、全員目がトロンとし、いつもの空き地がウッドストックのようになっている模様を3Dで忠実に再現してほしい。しずかちゃんのとろけた顔も3Dならもの凄く精巧に作れるはずだ。あと「入り込みミラー2」で、ジャイアンに自慢の高級スポーツカー「ポルチェ」をメチャクチャに大破させられた時のスネ夫の顔も3Dで見てみたい。よろしくお願いします。
でもなあ、こういうの映画でやると「不謹慎だ!」「残酷だ!」「F先生がそんな事するわけないだろ!」とか言われるんだろうなあ。世知辛い世の中だなあ。

014 19歳から26歳へ(たまコピーバンドの思い出)

去年の秋頃の話だ。僕のやっている曇ヶ原というバンドの今後をどうするかという打ち合わせをするために、メンバー一同で西荻窪の喫茶店に話し合いの席を設けた。
その時はギタリストのヤミニさんが脱退するという話だったので、後任を誰にするかとか(結局色々ありヤミニさんは今年の夏まで続けてくれる事になった)、音源を作ろうとか、どういったところでライブをやるかとか、まあそういった事をメンバーと、ああでもないこうでもない、とやっていたのだった。
話し合いは終わり、ヤミニさんは当時所属していたバンド「例のK」のライブがあるのですぐ近くのライブハウスへ向かい、ドラムスのようたんは家に帰り、残った僕とキーボードのあつみちゃんは、せっかく西荻まで来たんだから、元たまの石川さんが運営している雑貨屋「ニヒル牛」へ行こう、という話になり、二人でモタモタと西荻窪の街を歩いていたのだった。
あつみちゃんは19歳の現役音大生で、彼女が高校生の頃に参加した単発のインプロバンドで知り合い、受験が終わったタイミングで曇ヶ原へ勧誘したのだ。たまと森田童子あがた森魚が好きで、音楽の話をしていると特に年齢差は感じないのだけど、思いがけないところでジェネレーションギャップを感じ、そう言えばおれはあつみちゃんと7つも年が離れているのだなと気付き、愕然とする。
ともかく僕とあつみちゃんは西荻南にあるニヒル牛へと向かったのだが、歩いているとどうもこの道は以前歩いた覚えがある。ニヒル牛にはお店が開店した直後に1度行ったのだけれども、それとは別に、何かでこの通りを歩いたような……。
そう思い足りない頭を振り絞り、消えてなくなりつつあるかつての記憶を手繰り寄せていると、唐突に思い出した。確かに僕は以前、この道を歩いた事がある。それも、僕がちょうど19歳になったばかりの頃に。

僕がどんなにしょぼくれた高校時代を過ごしてきたかという話は、もはや散々ここでしてきたので今更いちいち書かないけれど、あれは僕が死ぬほど「さっさと終わってくれ!」と思っていた高校生活がようやく終わってくれた頃の話だ。
当時インターネットでは、2014年現在ではもはや死に体となってしまったmixiが「ヘンな大人達が集まって何かよからぬ事を企んでいる場所」として機能していた。あの頃のmixiは確か18歳未満の参加は禁止されていたのだけれど、僕は年齢を隠してこっそりと潜入し、わけのわからぬ長文の日記を書き散らしたり、好きなバンドのコミュニティに参加して色々な方々と情報交換をしたり、そこで知り合った方に雑誌の切り抜き記事とか貴重な音源等を頂いたりとか、そういった事をしていた。
そしてちょうど僕が大学受験が終わった頃、mixiのたまコミュニティで、「たまのコピーバンド」というトピックが立ち上げられた。確か最初に書き込んでいた人は関西の方だったのだけど、途中から関東に住んでいる人の書き込みが増え、では一度東京でバンドをやれそうな人達で集まりましょう、という流れになったような記憶がある。
これも完全なうろ覚えなのだけれど、確かギターや鍵盤、ドラムの人はいたのだけれど、ベースだけ席が空いていたので、どういうわけかその頃は極度の対人恐怖症であった僕が「ベース弾けます!」と大きな声で元気よく名乗りを上げた、ような気がする。
ただ、当時は高校時代の3年間を無人島で過ごしていたような具合だったので「このまま人間と交流を取らないでいたら、あたしもうぢき駄目になる!」と、もう既にダメになりつつあった頭で考えていた事は、なんとなく覚えている。失礼な話だけど、いわば「真人間になるためのリハビリ」の一環として、バンドに参加しようと思っていたのではなかったか。
そんなわけでその直後、mixiで声明を上げた方々と高円寺の喫茶店でお会いした。あの頃の僕は髪を肩まで伸ばした上に髭を生やしているという「はっぴいえんど時代の細野晴臣から才能を全部取ったような」出で立ちをしていたので、他の方々もギョッとしただろう。それでいて18歳とか言ってるんだからふざけているにも程がある。
ともかくそこで顔合わせをした後、確か御茶ノ水のスタジオで何曲か演奏をしたような気がする。
それからしばらくメンバーが入ったり抜けたりをやった後、最終的な編成は、ギター2名、ベース(僕)、ドラム、鍵盤やギター色々、ウクレレ、の6名となった。僕以外は全員20代後半の方々で、演奏もしっかりしており、なによりたまに対する造詣と愛情が強く、埼玉の片田舎で人間と接していない日々を過ごしていた僕は「こういう真摯な人々がこんなにもいるとは!」と大いに感動したのだった。

メンバーの人々は、こう書くと怒られそうだが「ヘンな大人」ばかりだった。ドラムの女性は普通の人(こう書くのも失礼だな)だったけれど、他の方々はなかなかに強烈なインパクトを持っていた。
リードギターのNさんはたまとはっぴいえんどビートルズフリークで、リッケンバッカーのギターを駆使してたまの様々な曲を弾きこなしていた。この方はかつて石川さんのサイトに数多くの投稿をしていて、mixiでこの人の名前を見た時「あっ!おれこの人知ってる!」と驚いたものだった。たまのライブにも頻繁に通っており、スタジオで曲を演奏する際にも「この曲はライブではこういうアレンジだった」という意見を多く出して頂いた。
もう一人のギターのAさんはNさんの大学の同級生で、たまファンだという事で意気投合し、以来長い付き合いであるという。最初はスタジオに遊びに来ていただけなのだけれど、確かコピーバンドの発起人の方が諸事情でバンドを続けられなくなってしまい、その代わりに加入となった気がする。違っていたらすみません。アコースティックギターにベース、たまにピアニカや鳴り物など様々な楽器を演奏し、そして何よりユーモアと温かみのある人であった。
鍵盤類やギター等を担当するTさんは、マルチプレイヤーでとにかく抜群の演奏力を持っており、パーカッション以外なら1人でたまの曲を再現する事ができるとんでもない人だった。毎回車に様々な楽器を積んでスタジオへ来ていたが、コントラバスを持ってきた時は驚いた。耳コピが趣味らしく、よくスタジオの休憩時間に色々な曲をピアノで弾いていた。ちなみに僕は中学時代、Tさんが大学生の頃に運営していた、たまやみんなのうたMIDIを公開するサイトを熱心に見ていた。この話を本人にすると嫌がられるけれど。
ウクレレのUさんはリアルタイムでたまを追っかけていた、今で言う「バンギャ」のような方で、昔の思い出話や貴重な話をよく聞かせて頂いた。今でも上がっていると思うけれど、イカ天のたま特集の映像にファンとして写っているという話を聞いた時は本当にびっくりした。サブカルチャーの知識にも長けている人でおり、色々な音楽や漫画、映画もこの方から教えてもらった。

こういった錚々たる顔ぶれでたまのコピーバンドは3年ほど活動を続けた。全員が楽器も弾けて歌も歌え、コーラスも取れるという、かなりクオリティの高いバンドであったと思う。
一方その頃の僕と言えば、完全に足を引っ張っているような状態で、ベースも歌もヘタだし、他の方々と比べるとたまに対する知識はあるけど圧倒的に体験が足りていないし、というような感じであった。そして今にして思えば、そういう卑屈な態度もよくなかった。その上連絡もあまり返さないしスタジオもちょいちょい飛ばすし、本当にあの頃の事を思い出すと反省するばかりである。
それでも月に1回のスタジオでの練習は楽しかった。好きなバンドの曲を素敵なメンバーと楽しく演奏する。ライブをやらない趣味のバンドであり、もっと言えば「お遊びのバンド」という事になるのかもしれないが、こんな高度なお遊びなら僕は、お遊びでいいじゃないか、お遊び万歳、と思う。
各々の生活が忙しくなり、様々な理由でバンドは自然消滅に近い形で終わってしまったが、もしまたメンバーが揃うのであれば、またスタジオで音を出してみたい。僕のベースも少なくともあの頃よりマシにはなっているとは思う。
ちなみにあの頃僕は歌にまるで自信がなかったので、僕が歌う曲はほとんどなかったが、1曲だけ、ろけっとに収録されている「寒い星」をベースを弾きながら歌った。Nさんは歪ませた単音のフレーズを弾き、Tさんはセミアコのギターにコーラスをかけてアルペジオで12弦ギターのような音を出し、なんだかレディオヘッドみたいなアレンジになっていた覚えがある。

いつだか西荻窪に住むウクレレのUさんの家に、NさんとAさんと遊びに行った事がある。確か夜通したまのビデオやNさんの持ってきた探偵ナイトスクープのDVD、それとUさんが持っていた「太陽を盗んだ男」を見て、翌日みんなでニヒル牛に寄って家に帰った。19歳になりたての僕は、ふらふらした頭で西荻窪の道を歩きながら「うわあー楽しいなあ―!」と、まるでバカみたいな事を思った事は、極端に記憶力が欠落している僕でもよく覚えている。

そしてあれから7年である。19歳だった僕は26歳になって、あの頃の僕と同じ年齢である19歳のあつみちゃんを連れて、あの頃のように西荻窪の道を歩いている。そう言えばあの時NさんとAさん、そしてTさんも26歳か27歳くらいで、今の僕とほとんど変わらない年齢であったと思う。
あの頃僕は、バンドのメンバーに対して「みんな大人だ!」という印象を持っていたが、果たして僕はちゃんとした26歳になれているのだろうか。19歳だった僕を引っ張ってくれたみんなのように、19歳のメンバーを引っ張る事のできる大人になっているのだろうか。
古谷実の漫画じゃないけれど「立派な大人になりたいなあ……」と思いながら、小雨が降りつつある西荻窪の街を、モタモタと歩いていたのであった。

013 Who Killed "例のK"?

3月16日のお昼、さてそろそろ出かけるかという時に何気なくTwitterを見たら、例のKの活動休止宣言がされていて泡を吹いた。この日は自分のバンド「曇ヶ原」の自主企画当日で、そのイベントに例のKはトリとして出演して頂く事になっていたのだ。そういった話は一切聞いておらず、寝耳に水である。
何はともあれ荷物をまとめて家を出、電車に乗って西荻窪へ向かう。早めに会場入りをして準備をしていると、出演者の人々が少しずつ集まってくる。我々曇ヶ原のリハが終わり、機材を楽屋に置き、一段落ついたところで、例のKではファズベースを、曇ヶ原ではギターを担当しているヤミニさんに聞いてみる。
「例のKはどうなるんですか?」
「うん、解散するよ」
いつもの調子で話していたが、一同はざわついた。更に話を聞くと、名前を変えて別名義で活動をするというわけでもなく、本当に「例のK」というバンドは、このライブを以って活動を停止してしまうのだ。
その話を聞きながら、僕は9年前の事を思い出していた。

今から9年前、2005年の秋。その頃僕は18歳になったばかりで、もはや完全に生活が破綻していた。学校にもロクに行かず、髪を肩まで伸ばして風貌は浮浪者そのものとなり、部屋にこもってでかい音で音楽を聴いているかファミコンドラクエ4をしているかというメチャクチャな日々を過ごしていた(ちなみにこの頃は日本のオルタナをよく聴いていて、確かCowpersを爆音で流していたら隣の部屋の祖父が突然部屋に乱入し「麻原彰晃みたいな頭しやがって!お前これからどうするつもりだ!」と説教をされた)。
当然ながら人間との接点は皆無に等しく、この頃の僕と言ったら、まるで無人島で暮らしているようだった。ドラえもんの道具で、飲むと絶対に他人と顔を合わせなくなる「無人境ドリンク」という物があったが、それを飲んでいないのに道具の効果が現れているような、そんな日々だった。
けれど後の人生を左右するような出会いもこの頃にあって、例えばこの2年後に僕が加入する事になるピコピコニューウェイブバンド「ピノリュック」のライブを初めて見たのもこの時期だし、以前日記にも書いた、僕と同い年の女の子、Oさんがベースを弾いている伝説のガレージバンド「むらさき」のライブを見て、その圧倒的なステージにショックを受けてゲロを吐きそうになったのも確かこの年の春先の事だ(Oさんについては「007 ここがヘンだよ俺以外(ベーシストOさんの話)」を参照の事)。
そして2005年9月、むらさきのライブが池袋で行われる、という情報を入手し、ライブも見たかったし、池袋なら東上線で一本で行けるからな、という理由で、僕は久しぶりに外出というか部屋の外へと出たわけである。
池袋駅北口から歩いて数分のところにライブハウス「池袋 手刀」はある。所謂ちゃんとしたライブハウスというものに行くのはこれが初めてだったので、少し緊張しながら受付でお金を払い、地下のステージへ続く階段を降りていったような記憶がある。
確かこの日、むらさきは1組目だった。見るのは2回目か3回目くらいだったけれど、相変わらずバンドとして完成されていて「これが同い年の人が出す音なのか……」と落ち込んだ。余談だけど、この時かその次に見た解散ライブで販売していた音源を買ったのだけれど、これがまた素晴らしい出来で、そこで僕はまた落ち込んだのであった。
さて、むらさきのステージが終わったが、チケットを見るとあと4組のバンドが出演するらしい。ここで帰るのはもったいないので、せっかくだから残って全ての出演者を見ることにした。
結果的にその判断は大正解だった。この日はそうそうたるメンツが集まっており、他にプラハデパートが出演し、トリはまだ太鼓を叩きながらのパフォーマンスを行っていた死神さんで、その今まで見た事のない世界に、僕は完全に脳天を吹き飛ばされたのであった。
そして一番ショックを受けたのが、トリ前に出演したバンドである。幕が上がると、そこには4人のメンバーがいた。長髪のフロントマンと超ロングのモヒカンのギタリストは2人ともSGを持っていて、やはりSGのベースを持っている女性ベーシストは口元を布切れで覆い、ずっと後ろを向いていた。同じく長髪のドラマーは確か上半身裸で、僕はその4名の風貌を見て「恐ろしいバンドが出てきたぞ」と思い、そっとフロアの後ろの方に下がった。この頃僕はなぜだかわからないけれどライブハウスに出ているバンドに対してやたらと怯えていて、前の方で見ていたら殴られる、と思っていたのだ。もちろんそんな事はないのだけれども。
しかし演奏が始まった途端、僕は一気にそのステージに引き込まれ、気がつけば少しずつ前へ、前へと移動しており、最終的にはフロアの真ん中の、かなり前の方でライブを見ていた。
とんでもない爆音の中、極めて日本的な湿り気を帯びたフレーズを弾く2本のギターが絡み、その上に歌謡曲のような歌メロが乗る。音がでかすぎて歌詞がまるで聴き取れなかったが(この時は「ライブハウスとはこういうものなのか」と思っていたけれど、後で色々話を聞いてみると、この日はPAの腕前が良くなく、とにかくやたらと外音を上げて音のバランスがメチャクチャになっていたらしい)、そのドロドロとした、底なし沼に片足を突っ込んだような音楽に僕はやられてしまった。
そのバンドこそが、例のKの前身バンド、中学生棺桶なのであった。
そこで僕の人生は大幅にねじ曲がった。それ以降僕は中学生棺桶目当てでライブハウスに通うようになり、そこで色々なバンドを知った。中学生棺桶のフロントマン、葉蔵さんは、ソングライティング能力も優れているが、良いバンドを探し当てる嗅覚が極めて高く、中学生棺桶企画のイベントは毎回ハズレ無しの素晴らしい日であった。例えば、現在はもはや飛ぶ鳥を落とす勢いで活動を続けている股下89やクウチュウ戦、優れた音楽的才能をもつ3名が集まった奇跡のグループ、殺生に絶望、現在曇ヶ原でもギターを弾いている山田くん率いる「機材を大事にするのに誰よりも恐いハードコアバンド」EmilyLikesTennisといったバンドは、全て葉蔵さんの企画で知った。
僕が勝手に思っている事だし、本人にそういう話をすると嫌がられるかもしれないけれど、僕は中学生棺桶は確実に「あの頃のあのシーン」を牽引していた、と思う。

その後中学生棺桶はメンバーチェンジによって名前を「例のK」と変え、その後またメンバーチェンジを行い現在の鉄壁の5人編成となった。
一方僕はと言えば、2007年ごろからいくつかのバンドに所属し、2010年にようやく弾き語りの形態で曇ヶ原を始める。その後色々な試行錯誤や停滞していた時期を乗り越え、2013年夏にバンド編成となって東京藝術大学の学園祭で初ステージを披露したのであった。ここに来てようやく、スタートラインに立てた気がする。
さて、スタートラインに立った後は、何かの目標に向かって活動をしていかなければならない。その目標を僕は、3月に行う自主企画に設定した。スリーマンで1組持ち時間は50分。共演者として招いたのは、圧倒的なステージングを展開する、ハードでソリッドなバンド、股下89、そして、上述の例のKである。
股下89もそうだけれど、特に例のKとは一度どこかで「勝負」をしなければならないと思っていた。もちろん我々はまだキャリアもないペーペーのバンドで、力量などは歴然の差だが、それにしても一度同じステージに立ちたかった。それが僕達が、というより僕が、9年前から走り続けているトラックから、新しい周回に入るために必要な事だと思ったからだ。
そうして思い切ってこの企画を立案した。諸事情によりだいぶバタバタしてはしまったが、年が明けて以降は特にこの企画のために精力を注いできた。アレンジの余地はあるが新曲も作った。デモ的な形だけれども音源も制作した。準備万端、とはとても言えないが、あとは企画当日を待つだけである。
そして企画当日、冒頭のような事があったので僕は大いに慌てた。我々の企画で例のKの最期を締めくくって良いのだろうか、という思いもあった。しかし全ては決まった事だ。あとはこのイベントを素晴らしい日にするだけである。

そして自主企画「電線と革靴 Vol.2」は終わった。股下89は相変わらず素晴らしいステージだった。完璧なリズム隊の上にかなさんの異常なギター、そしてあじまさんの圧倒的な歌が乗り、もはや非の打ち所なしである。さらにあじまさんがギターを弾くもんだから、かなさんのギターがもっと自由奔放になっており、とんでもない事になっていた。普段ならこれを見て落ち込むが、ライブ前の異常なテンションだったので、そのステージを見て、よし、おれも頑張るぞ!と、余計に気合が入った。
曇ヶ原は、まああんな感じです。しかし少なくとも我々のやりたい事は伝わったと思うし、あとは曲の精度を高めるだけである。そして僕は長い事自分の声にコンプレックスがあったし、今でもそれは拭いきれないのだけれども、色々な人に歌を褒めてもらって救われる思いであった。
そしてトリは例のK。50分ひたすらストイックに演奏を行い、しかしお客を楽しませるエンターテイメント性も忘れず(マイクに添えられた"菊の花"を葉蔵さんがムシャムシャと食い散らかす様はさすがであった)、そして終わった。しみったれたMCもアンコールもない、非常に例のKらしい最期だった。

ところで、例のKの解散宣言はイベント当日に発表されたのだけれど、それに対してはバンド内で厳重な箝口令が敷かれていたようで、誰も例のKが解散する、という事を知らなかった。僕も、曇ヶ原のメンバーも、そして例のKのメンバーが別にやっているバンド、ユニットのメンバーも知らなかったようである。それはやはり「解散だからと言って変に仰々しくしたくない」という事なのだろうと思う。
案の定Twitterでは突然の解散を惜しんだり、なかなかライブに行けなかった事を悔やむ声が多々あった。それについては僕も全く同意だし、そもそもここしばらくなかなか例のKを含む他人のライブに行けなかったので、あまりどういう言える立場ではないのだが、それにしても僕は、そういった話を聞く度に、コーパスグラインダーズのZERO氏が、昨年急逝した吉村秀樹について語っていた記事を思い出す。

ZERO:ツイッターで追悼、追悼…って騒いでたヤツらに俺は言いたいんだよ。「お前ら、ブッチャーズのライブに友達を1人でも連れて行ったのかよ? そうやって輪を広げようとしたのかよ!?」って。ようちゃんはそういうことを願いながらステージに立ってたんじゃないかと俺は思うし、「惜しい人を亡くした」なんて言うヒマがあったら、1人でCDを100枚買ってやれよ! って思うよね(笑)。

Co/SS/gZ[コーパス・グラインダーズ](Rooftop2014年3月) - インタビュー | Rooftop

もちろんみんな生活があるし、仕事や学校の都合もあるから、誰もがいつでもライブを見に行ける環境にいるわけではない、という事はわかっている。
それにしても、だ。それにしても、僕は解散してから「もっとライブ見たかった……」とか「辞めないで!」とか言い出す人を見ると、「だったらもっとライブ見に来いよ!」と思ってしまう。暴論なのは自分でもわかっているが、けれども、今更そんな事を言っても遅いのだ。バンドが解散してから悲しんでも手遅れだし、人が死んでから「あの人はいい人だった……」とか言い出す奴はろくなもんじゃない。だったらバンドが存続しているうちに、その人が生きているうちに、もっと大事にしろよ、と思うのである。これは自戒や悔恨の念を込めて言っている。
何はともあれ、例のKは解散した。それはもはや揺るぎのない事実であるし、周りの者がとやかく言っても仕方がない。解散したいから解散する。ただそれだけの話である。
それにしても、どうも湿っぽい性格をしている僕は、ライブ翌日電車に揺られながら、例えばうっかり中学生棺桶の音源なんか聴いてしまうと、どうも涙腺が緩んでしまうのである。

例のKのサイトには「最終回」のイラストと共に、バンド解散の声明が掲載されている。メンバーのその後はバラバラのようである。別のバンドを続ける者、バンドはしばらくやらない者。しかし、バンドを辞めるのも自由だし、やりたくなったらまた始めるのも自由である。一生音楽をやらない、ライブハウスには近寄らない、と決まったわけではないので、まだどこかで、皆さんとお会いできる事を、楽しみにしています。我々もその日まで頑張り、願わくば、我々もまた田舎の高校生の人生をねじ曲げる事のできるようなバンドになりたいと思っています。

短い間でしたが
ご静聴ありがとう
ございました

例のKは
志なかばにして

「例のKとしての活動限界」
及び
「例のKとしての自己嫌悪」
の「束」を迎えたため

「おしまい」と相成りました

どうかご理解
または
どうぞご曲解ください

012 ベッド・インと曇ヶ原のライブがあるわけです

日頃誰にも頼まれていないのにわけのわからないたわ言を延々とインターネットに垂れ流している僕ですが、一体お前は何なんだと聞かれたら、これでも僕はバンドマンなわけですよ。知ってますか?バンドマン。カッコいいですよね。僕もそんなカッチョいいバンドマンの一員なので非常に音楽的な日々を過ごしているわけで、今日も昼から水道屋さんにトイレのパイプの水漏れを直してもらったり、自転車で近所のダイソーに行って風呂の壁にくっつけるカミソリとか入れるアレを買ったり、後はこたつに突き刺さって録画したプリキュアを見るという極めてバンドマンらしい一日を送りました。BECKにもそういうシーンがあったのでこれが正しいバンドマンの姿なんだよきっと。

まあそんな事はどうでもいいわけで、ライブの告知です。
まずは年末年始にかけて、現在僕が、もとい、謎の女ベーシストショウコが「パートタイムラバーズ」としてお手伝いしている地下セクシーアイドルユニット「ベッド・イン」のライブが3本あります。

2013年12月18日(水)
四谷アウトブレイク

【ニッシーナイト!vol.3】地獄の女子ナイト!-ニッシー生誕祭-
ACTBo-Peep
秘密ロッカー
スペース☆ライダー
jungls!!! (ex.レッドバクテリアバキューム)
ベッド・イン
【アニソンDJ】 デビルドニッシー
タイガー(兼VJ)
DJLGHTNVL
DJ 3D☆きらぁ
【ごはん】 AIM.
OPEN18:30 START18:40
CHARGEadv\2000(D別)/day\2000(D別)

INFORMATION
【ニッシーナイト!vol.3】地獄の女子ナイト!-ニッシー生誕祭- ニッシーナイト!復活! 今回は恐ろしいほど強烈な女子達とガチヲタDJ陣でお送りするナイト!
※千葉県鴨川市の棚田オーナー制度を利用してスペース☆ライダーのメンバーと友人で丹精した米で作ったおにぎりと、その糠で作った糠漬けを無料奉仕!

2013年12月21日 (土)
仙台バードランド

  • SHOOTMASTER Presents- 「DIEスカム忘年会HELL 2013」

Op/18:00 St/18:30
Ticket:前売\1,600/当日\2,000 (Drink代別途\400)

【act】
イライザ・ロイヤル&ザ・総括リンチ (東京)
ベッド・イン with パートタイムラバーズ (東京)
SKOGENHAMMER
Mandrake
CONVERSATION ZERO
THUNDER TOMAHAWK
SHOOTMASTER
【Special Opening Act】
DICK BOYS

2014年1月5日(日)
[ベッドインと手刀企画]
ベッド・イン
PAPAPA
ぬ界村
the waruinamida
ハクビシン
肉ミート・ザ・マム

というわけで、四谷、仙台、池袋というツアーめいた何かを敢行してしまうんですね。仙台でライブやるの初めてだよおれ。
そしてそれと同時期にベッド・インのシングルをレコーディングし、3月に発売、レコ発もその頃行います。こちらはまた日を改めて告知します。

そして来年には、僕がベースとボーカルを担当している「曇ヶ原」のライブが3本決まっています。

2014年1月13日(月)
「螺旋の表層」
神楽坂EXPLOSION
東京都新宿区矢来町112番地 第二松下ビルB1F
(03-3267-8785)
開場/開演 未定
入場料 2200円(+1drink)
出演:
■死神
■殺生に絶望
■曇ヶ原

2014年2月8日(土)
「パルロックフェスティバル 2014 winter」
高円寺SooundStudioDOM
東京都杉並区高円寺南4-25-7 五明堂ビル3F
(03-3318-3569)
入場料 1500円(焼き肉食べ放題、再入場可、飲食持ち込み自由)

2014年3月16日(日)
自主企画
西荻窪FLAT
東京都杉並区西荻南3-17-2
(03-3335-9131)
出演:
■股下89
■例のK
■曇ヶ原

こんな感じで月1本のペースでライブをやります。
1月は毎度おなじみ神楽坂エクスプロージョンで、死神さん、殺生に絶望といった人達を共演に迎えての、新年早々濃ゆい組み合わせのイベントに出演します。
2月は今回で3度目となったパルフェスに出演。去年はオールナイトでしたが、今年は昼から夜の間という健康的な時間に開催されるので安心。焼き肉も食べれます。
3月は曇ヶ原自主企画。股下89、例のKといった、とにかく僕が圧倒された方々をお招きしてのスリーマン。我々だけキャリアが浅いですが、負けないくらいの勢いで頑張りたいと思います。

そして曇ヶ原ですが、若干編成に変化が。群馬が生んだ元高校球児、山田くんが新ギタリストとして加入しました。彼は「Emily likes tennis」という凄まじくカッコいい(この場合の「カッコいい」とは、BECKとは正反対の意味での「カッコいい」なので誤解なきよう)バンドもやっています。面白いあぶらだこというか、楽しいキャプテン・ビーフハートというか、まあとにかくそんな感じなのだけれど、口では説明し難いので是非一度ライブを見て頂きたい。物凄いよこのバンド。

そして更に、脱退を表明した前ギタリスト、ヤミニさんの続投が決定!それにより、曇ヶ原はツインギター編成となりました。これで音の幅が広がるぞ。しかし5人組ってバンドっぽくていいよね。ルナシーとかファナティッククライシスみたいでさ。ラピュータは4人か。シャズナは3人だね。ルアージュは何人だっけ?

まあどうでもいい無駄話は置いといて、とにかく新生曇ヶ原のお披露目ライブは1月13日、神楽坂エクスプロージョンにて行われます。この日までに4人編成曇ヶ原の音源を完成させるので、会場で物販席に並べたいと思います。果たして完成できるのだろうか?その答えは当日会場に行けばわかるんですねこれが。

3月までに行う3本のライブ、はっきり言ってどの日もハズレ無しの素晴らしいイベントなので、ぜひ皆様にはふらりと遊びに来て頂きたい!我々も素晴らしい共演者の方々に負けないように精一杯やりますので。

2014年は頑張るぞ!(こたつに入ってうっとりした顔をしながら)

011 モテが文化を破壊する(無名のラーメンブロガーに幸あれ)

少し前にネット上で話題になった、人間関係に疲れてうつ病になったラーメンブロガーが増えている話について遅ればせながら便乗する。読めば読むほど胡散臭く、甚だ信憑性に欠ける記事ではあるが、しかしこれと似たような話は良く聞くので、一概に何もかもが嘘だとは言い切れない。その記事とはこれである。

増えるうつ病ラーメンブロガー 「ラーメンと人間関係に疲れた」

以下、この中の肝である部分を引用する。

「会社の飲み会の席で『Aさんってラーメンに詳しいんですよね』と女の子たちに聞かれて、僕のおすすめを教えてあげたんです。最近のトレンド、店主の人柄、コスパなど様々な側面を考慮して、女子向けのいいお店をです。また90年代からのラーメンのニューウェーブ系の歴史もわかりやすく教えてあげた。知り合いの店主だから僕の紹介だと言えば味玉ぐらいオマケしてくれるんじゃないかとも言いました」

Aさんにそんな話を聞いてきたのは会社の20代の女性社員3人だった。だが翌日、会社のランチルームに入ろうとした時、彼女たちがAさんの話をしていたという。

「酷いことを言っていたんですよ。『ラーメンぐらいであんなに得意になれるって終わってる』『彼女もいないし、ラーメンと結婚したんじゃないの』『息がトンコツとニンニクの臭いがする』なんて。その場には僕の後輩の男性社員たちもいたみたいで、みんな笑っていた。その日は会社を早退して、家に帰ったらめまいがして」(Aさん)

電話取材を行っていると、この話をしているうちにAさんは嗚咽をもらしはじめた。ラーメン二郎も全店制覇するなどラーメンに尽くし、恋愛、友人、仕事(休日の出勤も食べあるきのために断っていた)を犠牲にしてきただけに、周囲の心ない言葉が響いたようだ。

「ラーメンは結局、僕になにも与えてくれなかったんです」(Aさん)

まあところどころインチキくさい箇所はあるのだが、この際それは無視するとして、とにかくこの記事はネットの一部を大いに賑わせた、というか、ネットユーザーをはしゃがせた。まとめブログを読めば「ラーメンの食べ過ぎで精神がおかしくなった」とか「熱く語りすぎてキモがられるのは当たり前」とか、まあこのラーメンブロガーに対しての批判が8割を占めていたのだが、しかし僕が気になったのは、これだけ色々な人が記事を閲覧でき、それに対して自分の意見を書き込む事ができるインターネットの中で、ついに「俺はラーメンブログを読んで店を探しているよ」と言った趣旨の事を発言している人が一人も発見できなかった点だ。
良くも悪くもネット社会である。もはや大抵の情報はパソコンやらスマホやらで検索すれば手に入る。それは食事をする時も同じだ。出先で小腹が空き、ちょっとどこか店にでも入ろうと思う。しかし土地勘がないのでどういった店があるのかがわからない。そんな時にスマホの出番だ。さっと取り出したiPhoneでスッスッと「竹ノ塚 食事 安い」なんて打ち込めば、あっという間に駅周辺のレストランや居酒屋の情報が出てくる。そしてそれはラーメン屋を探す時でも同じではないか。
突然ラーメンが食べたくなった。しかしこの家には最近越してきたばかりなので、まだ近隣の情報があやふやだ。そこでパソコンで「田無 ラーメン うまい」と入力すればすぐに近場のラーメン屋の地図が出てきて、ついでにそのラーメン屋の名前も検索すれば、散々ネットユーザーがバカにしてきた「ラーメンブログ」が出てきて、それを見ればここのラーメン屋は麺が太いとかあそこのラーメン屋はスープが濃厚だとか、まあとにかくそういった事細かな情報まで手に入るわけだ。家に居たままで、である。そしてその情報は、ネットの人々が鬼の首を取ったかのようにバッシングしているラーメンブロガーが地道に収集し、公開しているものだ。
そんなラーメンブログの恩恵を多大に受けているはずの人々が、こういった記事には一転して「ラーメンブロガーはキモい」と言ったコメントを次々とつけているのである。これは一体どういうわけか。
理由はいくつかあって、そのうちにはネット上での同調圧力に負けてだとか、もしくはラーメンブロガーに批判的なコメントばかりが恣意的にまとめブログに掲載されているだとか(この記事を元に立てられた2ちゃんねるのスレッドはDAT落ちしていたので、まとめブログに掲載されているコメントしか見る事ができなかった)そういったものもあると思うが、一番の大きな理由は「ラーメンブロガーなんて擁護してもモテないから」であると僕は思う。
うまいラーメン屋を見つけて友達にでかい顔したい。女の子に情報通だと思われて人気者になりたい。モテたい。あわよくばセックスしたい。でも自分の足でラーメン屋を渡り歩いてうまい店を探すのは面倒臭い。疲れる。時間の無駄。ダサい。モテない。ではどうするかと言った時にネットである。インターネットでちょちょいと検索をすればすぐさま人気のあるラーメン屋の名前が出てきて、インスタントに情報を手に入れる事ができる。そしてそれをあたかも「この店オレが見つけたんだぜ」と言わんばかりの顔をして友達や気になってる女の子を連れて行く。もちろんこの時「インターネットで調べてね……」等という事は口が裂けても言わない。自分の薄っぺらさが露呈してしまうからである。そしてラーメンを食べる。うまい。あなたって色々なお店知ってるのね。ふふっ、まあね。またどこか連れて行ってほしいな。じゃあ来週はおすすめのバー(これもインターネットで見つけた)に連れてってあげるよ。まあ素敵!抱いて!そしてセックスである。ふざけやがって。
途中話が脱線したけれど、つまり彼らは情報はどんな楽をしてでも情報は手に入れたいが、そのための努力は惜しみ、そして他人が苦労して集めた情報を横からかっさらい、あたかも自分の足を使ってその情報を手に入れたかのように隠蔽工作をし、その一環としてこの場合の情報元のラーメンブログを「あいつらってほんとキモいよね(笑)」等と嘲笑し、それによっていかに自分がスマートに事をこなすかを一生懸命アピールするわけである。ネット上におけるラーメンブロガー叩きはその氷山の一角なのではないか。
ラーメンブロガーが休日と給料を全てラーメン屋めぐりに注ぎ込み、モリモリとラーメンを食い、その感想をチマチマブログに書くという地道な作業によって集積されたデータをおモテになる男様達が都合よく拝借し、そしてあいつら(もう「彼ら」等と言ってる場合じゃない。あんな奴らは「あいつら」で十分なのだ)は「キミたちもさー、ラーメンばかり食べてないで女の子と遊んだら?」と言うわけだ。ラーメンを食ったその口で。大きな声で。偉そうに。バカのくせに。ふざけやがって。いい加減にしろ。なんなんだあいつら。
どうもところどころ私情が入ってしまうのだけどまあそれはそれとして置いといて、とにかくいくら好きでやってるとは言えこんな不毛な日々が続き、ラーメンを食ってるだけで「息がとんこつ臭い」なんて言われたらそりゃブログを辞めたくもなるだろう。
しかしあいつらはまた偉そうに言うのである。「趣味に見返りを求めるな」と。あのなあ、と僕は言いたい。そういうのは何か一つの趣味に没頭してる人が自戒の念を込めて言うから意味があるのであって、お前らみたいな人が苦労して集めた情報を横取りした上にその情報源を小バカにしてるような、敬意のカケラも持たないモテる事だけに全力を尽くすチンチンに脳ミソがついてるゴミ人間が言うセリフじゃないからな、と。
ただしかし、それは口にする人間の問題であって、「趣味に見返りを求めるな」と言うのは全くの正論である。それは何もラーメンブロガーに限った事じゃない。謎のレコードコレクターおじさん、坂口安吾の書斎みたいな部屋に住む文学家崩れ、地震だけが恐ろしいフィギュア収集家、売れないバンドマン、細々と活動する同人誌作家、なんかわからないけど捕まっちゃったダンサー、釣りが著しく好きな三平、そういった全ての無名の人が、基本的には自分を満足させるためにやっているのだから、それに見返りを求めたいのであれば、その道の「プロ」になればいいのだ。
しかしそういった見返りを求めない趣味に生きる人達のお陰で、世の文化は発展しているのではないか。趣味のラーメンブロガーがいなかったら様々な地域のラーメン屋の素朴な情報が手に入らなかったように。そして、まあそんな事はないだろうとは思うけど、もしそういう人達がいなくなってしまったら、体育会系チンチンばかりが幅を利かせる世の中になって、世の文化は徹底的に破壊され、非常につまらなくなっていくだろうと思うし、少なくともインターネットは今より確実に面白くなくなるだろう。ネットでくだらない事や面白い事をしているのは、ダサくてモテない文系チンチンである確率が高いからである。

後は全てコミュニケーションの問題にすり替えられてしまうので多くは語らないが、ただ一つ言いたいのは、僕は所謂ネット上で叩かれがちな「早口でアニメの話をまくし立てるオタク」的な人間は決して嫌いではない、という事だ。
ラーメンブロガーの記事には「熱く語ると人に嫌われる」というコメントがついているが、まあ確かに聞いてもいない事を大きな声でベラベラと一方的に話されたらさすがに僕もうんざりするけれど、件の記事を読むと、これは女性社員の方から件のラーメンブロガーの男性にラーメンの事を尋ねている。そしてそれについて答えた結果が会社で仲間を引き連れての悪口三昧である。お前から聞いてきた事に答えたのに、それに対しての返答がそれかよ、それがお前らが大好きな「コミュニケーション」なのか?と僕は言いたい。
その趣味にかける情熱と豊富な知識、そしてとても器用とは言い難い社交能力を持つ人間を、僕は積極的に支持したい。

010 僕の小規模な福満しげゆき論

こうして思い返してみると、2003年という年は実に色々な事があった。高校に入学し、早くも学校に行かなくなり、起死回生を図るためにバイト代を貯めてリッケンバッカーのベースを買ったり、けれど友達がいないからバンドを組めず、家でひたすら練習をしていたり……。ある意味この年で、僕のその後の人生が決まってしまったと言っても過言ではないだろう。そしてそんな僕に重大な影響を与えた、というか、「僕と似たような事を考えている人がいる!」と思わせた漫画家と出会ったのも2003年である。

あれは2003年の秋だったか。第一次登校拒否時代に突入していた僕は、自室にこもり朝から古本屋で買ったガロの巻頭特集の、山田花子追悼記事を読み涙していた。そして読み終わってもまだお昼。外は曇っていてからっ風がびゅうびゅう吹いている。埃で汚れた窓から外を眺めながら「一体僕はこの先どうなってしまうんだろう……?」という不安に襲われていた。どうしてこんな事になったのか、なんでこんな澱んだ日々を過ごさなければならないのか、ひとつ曲がり角、ひとつ間違えて、迷い道クネクネ。あの頃はとにかく「早く終わってくれ!」という思いでいっぱいだった。
そして再び手元のガロに視線を落とし、ふと思う。「そういえば、今ガロはどうなっているんだろう?」
90年代後半に創設者である長井勝一が亡くなり、その後休刊と復刊を繰り返しているという話は聴いていたが、その後がどうなったのかよくわからない。僕は埼玉の片田舎に住んでいたのだけれど、隣り町に出来た「日本初のアウトレットモール」の中になぜかまだ首都圏に展開を始めたばかりのヴィレッジヴァンガードがオープンして、そこの雑誌コーナーに新装版ガロが置かれているのを目にした事がある。しかし僕が中学生くらいになる頃にはヴィレッジヴァンガードは撤退し、現在進行形のサブカルチャー文化は僕の周辺から消滅した(ちなみにそのアウトレットモール自体も光の速さで衰退していき廃墟同然となり、3年ほど前に閉鎖された)。
そこでインターネットである。僕は早速パソコンで現在のガロを調べた。するとどうやら2002年頃までは辛うじて発刊を続けていたものの、2003年当時はもはやほぼ青林堂としての活動は停止していたらしい。しかしもっと調べると、当時青林堂にいた社員が青林工藝舎という新しい会社を立ち上げ、現在は「アックス」という雑誌を出版している、という事がわかった。僕はそれに興味を持ち、所沢にアックスを取り扱っている書店があるというので、電車で30分ほどかけて所沢へと向かった。
そして書店に到着。店内をうろうろしていると、雑誌コーナーの片隅にアックスの最新号が置かれていた。それを手にした僕は、まずその表紙のイラストに強い印象を持った。
線の細い内向的で神経質そうな男が階段に座ってアックスを手にしている。顔はこちらを向いており、その表情は漠然とした不安で溢れている。その表紙にはアックスという雑誌名と、「福満しげゆきの小規模な特集」という文字が書かれていた。ページを開くと巻頭には「僕の小規模な失敗 ホームレスに憧れる(前)の巻」と題された漫画が載っていた。
それが僕と福満しげゆきの出会いであった。
何はともあれ、ひとまずその漫画をざっと読んでみる事にする。内容は、色々あったけれどなんとか大学に入れた「僕」が、「大学に行けば僕にも彼女や友達ができるんだろうか?」と電車の中で期待に胸を膨らますシーンから始まる。しかし授業に全くついていけず、満員電車による通学と何を言っているのかまるでわからない授業の繰り返しの日々の中、思い描いていた夢はあっという間に粉微塵に砕け、次のページには、ネット上では比較的有名な、あの「間もなく…大学敷地内の…何か用途不明の地下みたいなところでたいはんの時間を過ごすようになった…」というナレーションと共に「僕」が薄暗い階段に座っているシーンが大ゴマで描かれている。そんな中、以前描いた漫画を送った「某大手出版社」から連絡があり、少しずつではあるが雑誌に漫画が掲載されるようになる。しかしアンケートの結果は芳しくなく、早くもちゃんとした漫画家になる事を諦め、なぜかホームレスに対する憧れが募りだす。再び満員電車に詰め込められる毎日は続き、ぎゅうぎゅうの電車から「ペッ」と吐き出された「僕」は帰路につきながらこう思う。
「みんなこんな事毎日やってるのか……?」
「世間のみんなが強いのか……僕が弱すぎるのか……」
といったシーンでこの回は終わる。8ページの作品だが、僕はこれを読み終わった時こう思った。
「僕と似たような事を考えている人がいるとは!」
多少は期待して高校に入学したものの友達はできず、次第に休みがちになり、勉強にもついて行けず、日々の電車通学に疲れきって不登校に突入した当時の僕にとって、この漫画は正に「僕の気持ちを代弁してくれている!」と思わせるものだった。
すぐさまアックスを購入し、家に帰って漫画の後に掲載されているインタビューを読む。それによるとこの「僕の小規模な失敗」は作者の自伝的な漫画のようだ。工業高校を中退し定時制高校に入り直し、どうにか大学に入学したのが今回の話らしいのだが、そのインタビューの内容も大変僕の心を打った。

高校でリアルに油まみれで「これ何に使うの?」という変なネジを作らされるわけです(笑)。「ああそうなんだ、家も金持ちでなく頭も悪かったら、どこかの工場で部品を作るしかないんだ」と16歳くらいで思い知るわけです。

学校でマンガ書くから不良よりも怒られるので、本当に自分のバリアをはってやるわけです。やがてだんだん学校にも行かなくなって図書館とかで書いてたんです。それで留年して辞めました。
(中略)
今だから面白おかしく言えますけど、その時は恐いですよ。もう終わりだと思います。

福満しげゆきが高校時代に感じていた将来に対する不安を、正にその時僕は現在進行形で思っていた。家も決して裕福ではないし、頭も悪いし、その上この不況下なので到底就職なんてできるとは思えない。

恋愛ゲームに参加できず…漫画コンクールで相手にされず…学歴コースからも脱落しちゃって……
「失敗だ……」

インタビューの最後のページに掲載されていたコマのこのセリフに、当時の僕の気持ちが全て凝縮されていた。

それから2年後、人間との接触が完全に絶たれたまま僕は高校3年生になった。その頃じわじわと盛り上がっていたmixiで「僕の小規模な失敗」が単行本になるという話を聞いた。これは買うしかない!というわけで、僕は埼玉から片道1時間位かけて単行本が取り扱われている中野の書店へと向かったのだった。
そうして手に入れた単行本を読んだ僕の第一印象は「思ったより深刻な漫画ではないのだな」というものだった。もちろん内容自体はもの凄くヘヴィで、深刻な箇所だけ抽出すればただただ暗く重いだけの漫画になっていたのだろうと思う。しかしそこを、福満しげゆき独特の笑いでただ辛いだけの漫画になる事を防いでいる。
この漫画を一言で説明しするなら「ダメな主人公がひたすらクヨクヨ悩む話」である。事あるごとに「全てがダメになる大いなる予感!」と叫び(実際は心の中で思っているだけだけど)、数少ない取り柄である漫画が描けなくなると「人には適正があるとして……たまたまどこにも何にも適応できない人間だっているのでは……それが僕だとするのなら……将来はどうなるんだ……怖い……」と怯え、「まともにやれないクセにまともでいたいと願う気持ちが強すぎるからつらいんだ……」と煩悶する。
これだけだとただの暗い漫画になってしまうが、しかし別のシーンでは、FBI心理学の本を読み「犯人の共通点、部屋が散らかし放題、女にモテない」という一文を読んで「僕だ!」とギョッとする場面や、油取り紙で顔をペタペタ拭く女の子を見て「何その紙!」と驚く場面などという、決して明るいものではなく、むしろ完全に暗く後ろ向きな笑いなのだけれども、そういったダメ人間特有の「あるある笑い」を要所要所に差し込む事によって、この漫画独特の「明るくはないけれど100%暗いわけでもない、楽しくはないけれど決して全てが悲しいわけじゃない」という雰囲気が醸し出されている。
その後紆余曲折あって金髪で頭の悪い彼女と同棲し、一念発起してどうにか就職するのだけれどもあっという間にクビに。どの仕事も長続きせず家でクヨクヨしていると彼女が「覚醒」して突然まともな大人となり仕事へ行くようになる。漫画を送った出版社からも良い返事が来て、彼女とも結婚する。そして「僕はいろいろ思った」というナレーションに続いてこういったモノローグが入る。

いろいろなことが…
あったようななかったようなこれまでだったけど…
落ち込んだりもしたけれど…
よくよく考えてみれば今までこれでよかったんだ…
……いや
むしろ幸せな人生だったのではないかな…?

「僕」は彼女改め「妻」とコタツに入りテレビを見ており、コマの左下には「終わり」と描かれている。めでたしめでたし、と思いきや、次のページをめくると「しかし人生は続く」というナレーションと共に「妻」に「仕事どーすんの、お金ないんだよ!」と怒られるシーンが始まる。
そしてまた僕のモノローグ。

なんだろう?
僕は結婚したら人生の問題が解決して
何かが完結すると思い込んでいたぞ……
バカだった……

結局漫画の持ち込みはうまくいかず、「これからどうなるんだろう……」とこぼすシーンで「僕の小規模な失敗」は完結となる。
こういった、言わば深夜ラジオ的な笑いを含んだ漫画を読み終えた後、17歳の僕は多少なりとも救われたような思いだった。この頃僕はそれこそ「僕だけが弱いのか?」と思っていたし「他の人はみんな誰も彼もうまく行ってて、失敗を繰り返しているのは僕だけなのではないか?」という思いでいっぱいだったので、この作品を読んだ事によって「似たような事を思ったり感じたりしている人は他にもいるのだ」と思い、慰め合いというわけではないが、多少なりとも気が楽になった。

その後しばらく福満しげゆきを追いかけていた。単行本が出たら買い、雑誌に漫画が掲載されたら読み、そして「僕の小規模な失敗」の続編「僕の小規模な生活」がモーニングで連載されるようになったら毎週読み、「ついに福満しげゆきがメジャーに進出した!」と一ファンであった僕は喜んだ。
しかしそれから少しして、僕はある疑惑の念に囚われるようになった。
福満しげゆきは決して僕寄りのダメ人間ではないのでは?」
「結婚もしてるし漫画家生活も順調だし……」
そして極めつけは「妻」の妊娠である。子供が出来ていよいよ父親になろうとする氏の姿を見て、僕はこう思った。
福満しげゆきリア充じゃないか!俺は騙されていた!」
それ以降、僕は「福満しげゆきはメジャーに行ってから丸くなった」「以前のようなソリッドな感覚を失った」とか、まあなんというかわかったような口を利き、僕はそれ以降「僕の小規模な生活」を読まなくなった。俗にいう「福満離れ」である。

そして今年に入っての事だ。久しぶりに実家に帰って、部屋の本棚にしまいっぱなしだった「僕の小規模な生活」の1巻と2巻を読み返して、僕は驚いた。
「全然リア充じゃないじゃねえか」
無職をこじらせて「妻」に殴られる、1年は続けられるといったコンビニのバイトの仕事が覚えられずあっという間にトンズラする、少しずつ漫画が雑誌に載るようになっても、編集者と飲みの席で余計な事をペラペラしゃべりすぎて家に帰って落ち込む……。一体これのどこが「リア充」の生活なのだろうか?生活の環境が変わったところで、とにかくひたすらクヨクヨするという氏の本質的な「ダメ人間」的な要素は全く変わっていない。そして福満漫画独特の擬音はより進化を遂げており(「妻」がコタツに刺さっている「ズボー」、それを見てイライラする「僕の」「イラー」、流れ続けるテレビから聞こえる「わははー」等)、ギャグ漫画とまでは言わないけれども、かつての暗さを残したまま面白さの精度は上がっている。
これは面白い漫画だ!と僕は考えを改め、僕は再び福満しげゆきの漫画を読むようになった。俗にいう「福満返り」である。

こうして部屋の本棚には福満しげゆきの漫画がズラリと並ぶようになったのだが、氏の作品を読んでいると、その全てに通底している「福満イズム」のようなものが朧気に見えてくる。
それはいくつかあるけれど、まずその大きな特徴として「福満しげゆきは弱者に優しい」というものがある。
だいぶ漠然としているが、まず何が弱者であるか。それは「僕の小規模な失敗」でも一貫して「僕」が持ち続けている悩みである「頭が悪い」「社会に適応できない」「女にモテない」「非力である」と言った要素を持っている人間が、福満しげゆきが定義する弱者であると思われる。
その逆に「頭がいい」「社会に溶け込める」「モテる「力が強い」」といった「強者」側の人間にはとことん冷たい。例えばアックスで連載され、数年のブランクを挟んだ後にウェブ連載で作品の完結を迎えた「生活」にはそんな福満イズムが色濃く表れている。
この作品はコンビニで働くフリーターの「オレ」、工業高校卒のニートの「僕」、謎の女子高生の「リーダー」、普通のサラリーマンである「オジさん」という、言わば福満イズムに照らし合わせれば弱者側の人間が、未成年にわいせつ行為を働いた高校教師、弱そうな中学生をカツアゲしている高校生、電車の中で騒ぐ女連れの強くて怖そうな人といった強者側の人間を、トンカチやロープ、ガムテープを使って成敗していくという話である。強者とは言い換えればマジョリティサイドと言えるし、もしくは所謂「DQN」だとも言える。そういったタイプの人間に対する怒り、憎しみ、不平や不満といった感情への回答がこの作品なのではないか。

そして「福満イズム」のもう一つの特徴といえば「組織集団への不信感」という点ではないだろうか。
例えば先ほど挙げた「生活」では、最初はその4名で細々と活動をしていたが、徐々にその規模が巨大化し、非常に規模の大きな組織となる。その結果、所謂「強者」の側である、つまり、頭が良くて、すぐに徒党を組み、女にもてて、力が強い人間が幅を利かせるようになり、あっという間に組織は腐敗する。それに対し「オレ」と「僕」は極めて小規模に反乱を起こすのだが、ここで象徴的なのが、かつて「オレ」と「僕」が救った、弱者側の人間であった少年達も組織に取り込まれた結果、いつの間にか無法を働く「強者」の側についていた、という点だ。弱者が強者に立ち向かうために一つの集団を形成し、組織としての強度を増して力をつけていく。それ自体は決して間違いではないのだが、残念ながら弱者が力を持ち強者のポジションについてしまった結果、当初抱いていた弱者の心を忘れてしまう、という事例は決して少なくない。そしてその事に対して福満しげゆきは非常に批判的である。
だから福満漫画はいつも小規模なものであるし、他の作品、例えば「僕の小規模な生活」や「うちの妻ってどうでしょう?」でも、登場人物が極端に少ない。これは例えば、かつて自分の番組のスタッフやリスナーと悪ふざけを企んでいたが、いつの間にか後輩芸人達と野球チームを結成して「主宰」の立場についた伊集院光とは正反対である。むしろどちらかと言えば、ポッドキャスト文化放送の朝4時というとんでもない時間に、小さなコミュニティ(妻子、2名のスタッフ、極たまに現れる数名の先輩や後輩の芸人)で起こった小規模な事件を題材にしたフリートークや、誰が嫌いだ彼が嫌いだといった悪口を少ないリスナー相手にまき散らしている髭男爵山田ルイ53世のスタンスに近いものがある(余談だけど、僕はポスト深夜の馬鹿力は「髭男爵 山田ルイ53世ルネッサンスラジオ」なのではないかと思っている)。
福満しげゆきの小規模な特集」に寄稿されている安部幸弘によるコラムにはこう書かれている。

だから、読者の一人として勝手ながら福満氏に望むのは、できればこれからも自信のない男の子を描き続けて欲しい、という事だ。まあだめ連みたいに「駄目でもいいんだ!」と宣言するのも選択肢の一つだが、福満漫画では多分こうなるだろう――
「そうか、駄目でもいいって思っていいんだ!……ろうか?いや、それじゃやっぱり駄目なのでは。でも潔く開き直れないって事自体、かえって駄目なのかも……」

徒党を組まず小規模に活動するという事は、肯定しあう仲間が極端に少ないという事だ。それが自信の低下に繋がりうじうじと悩む結果になるのだが、しかし徒党を組んだ途端組織は歯止めが効かず暴走し、腐敗する。その事を福満しげゆきは理解しており、なおも様々な事にクヨクヨしながら、しかし小規模に強者に対する抗議活動を続けるのだ(これは、本人は反原発の思想を掲げてはいるが、デモには「膝が痛くなりそうだからしたくないですし……」という理由で参加しないという点に端的に表れている)。

更にもう一つ「福満イズム」の特徴を上げるとしたら、それは「だけど人恋しいし一人はさみしくてつらい」という、なんとも情けないものである。
僕の小規模な失敗」でも「僕」は後の「妻」となる女の子に入れ込み、そして一度フラれるのだが、その際「いろんな理屈並べて強がっていたけど、本当は全然こらえられなくてさみしかった」と言って号泣し、その後結婚をして「僕の小規模な生活」に話が移り変わっても「例えば妻が死んだら」という森田童子みたいな妄想を繰り広げては「一人では生きていけない!」という結論に到達して震える。
集団に馴染めないし不信感すら抱いているが、かといってひとりぼっちでは生きていけない。このどちらにも振りきれる事ができない情けなさが、福満しげゆきの作品の大きな魅力の一つであると言える。

以上の点を踏まえると「福満しげゆきリア充だ!」などといった事はとんでもない思い違いであると言える。それでもよく「福満なんてあんなのファッション非モテだから」とか「童貞パフォーマンス乙」などといった言葉を嘲笑混じりに投げつけてくる奴がいるが、大体そういう奴は頭も良くて仕事もできてお金も持ってて半同棲中の彼女と週3ペースでセックスをしてるようなゴミ人間なので、縄で吊るしあげても全く問題ない。ほんとなんなんだよあいつら。
現在「僕の小規模な生活」は休載中だが、「うちの妻ってどうでしょう?」が漫画アクションで連載されている。そこでも妻と2名の我が子と「僕」が織りなす小規模な日常漫画が描かれているが、僕としてはこのまま、変に規模を拡大したり、権力を振りかざすのではなく、小規模なまま強者に噛み付いていってほしいと思う。

ところで僕は「僕の小規模な失敗」を購入した直後、中野のタコシェで行われたサイン会に行った事がある。僕は福満しげゆきとは、氏の作品に登場するような、線の細い神経質でナイーブそうな人物像を想像していたのだが、実際にお会いしてみると、当時頭は丸刈りで無精髭を生やしており、なんというか「刑務所の中」といった出で立ちの強そうな人だった。しかし言葉少なに話す口調は柔らかく、こういうところに氏の作品にも通じる「優しさ」が表れているなと思った。
ちなみにその時僕は恐ろしい事に、髪を肩まで伸ばした上に髭を生やしているという「才能のないはっぴいえんど時代の細野晴臣」みたいなとんでもない風貌をしていた。そんな僕を見た福満氏は「髭仲間ですね」と言って小さく笑っていたのだが、僕はその時の事を今でもよく覚えている。
そこでサインしてもらった単行本は、僕の家宝と言っても過言ではない。

009 「宮崎勤事件」と「ぼく」(いかにして僕は「ミヤザキ君」にならなかったのか)

1987年に生まれた僕でさえ、その翌年に東京と埼玉で発生し、以降犯人が逮捕されるまで(またそれ以後も)日本全国を震撼させた「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」の事は知っている。僕が小学生の頃テレビでよく放送されていた、かつて日本で起きた事件を振り返る2時間の特別番組では必ずと言っていいほど、この事件について触れていたからだ。「僕が生まれた頃、とんでもない誘拐事件が世間を騒がせていた」という事と、「宮崎勤」という名前は、当時7歳だった僕の頭の中に強く叩きこまれていた。
それから10年が経ち、僕は17歳になった。何度も何度もこのブログで書いてきたけど、17歳の頃の僕と言ったらそれはもう暗黒の日々を過ごしていて、毎日毎日孤独に両足を掴まれている状態だった。オタク趣味とサブカルチャーに耽溺し、本棚とCDラックには近所の古本屋、中古レコード店で購入した物を次々と詰め込んでいった結果、ついに収納しきれず床にまで積み上げるようになり、部屋は物で埋め尽くされていった。
その頃の僕の趣味として、過去に起きた犯罪を調べるというものがあった。インターネットにはそういったデータをまとめたサイトがいくつもあり、事件の犯人の名前を打ち込めば、その詳細はすぐにわかった。学校に行かないどころか外にもロクに出ず、ずっと部屋に篭もりっきりになり、パソコンに触り続けて気がつけば午前2時。夜更けに陰惨な事件を事細かに記述した文章を読んでいると、何やらディスプレイからニュッと手が伸びて僕の頭を鷲掴みにし、そのまま画面の中へ引きずり込まれてしまいそうな、そんな感覚に陥る事もしばしばあった。
そんな中で僕は10年ぶりくらいに「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」の詳細に触れた。前述したように、この事件に関しては過去何度もテレビで見た事があるので、いちいち調べるような事はしなかったのだが、どういうきっかけだったか忘れたけれど、改めてこの事件の記事を読み直してみよう、と思ったのだ。
そこで僕が目にしたものは、テレビでは報じられていなかったものばかりだった。僕が見た特別番組の内容は、時間の関係もあったのだろうが、主に事件の猟奇性や、犯人である宮崎勤の特異な趣味(「あの部屋」も確かこの手の番組で見た覚えがある)にばかりスポットライトが当たっていたが、そのサイトはもっと事細かに事件についての記述が掲載されており、テレビで放送されていたものに加え、宮崎勤のその生い立ち、家庭環境、事件に至るまでの時系列が書かれていた。
そのページを最後まで読み終えた時、僕はこう思った。
「これは……まるで俺じゃないか」

「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」についての詳細はもう既に色々なところで語られ尽くしているので割愛し、以下に犯人、宮崎勤の生い立ち等をWikipediaから抜粋する。

東京都西多摩郡五日市町(現あきる野市)にある地元の新聞会社を経営する、裕福な一家の長男として出生。両親は共働きで忙しかったため、産まれてまもなく、30歳ぐらいの知的障害を持つ子守りの男性を住み込みで雇い入れている。幼い勤の世話のほとんどは、この男性と祖父が行っていた。
幼い頃から手首を回せず手のひらを上に向けられない「両側先天性橈尺骨癒合症」(りょうがわせんてんせいとうしゃくこつゆごうしょう)という、当時の日本には150ほどしか症例のない珍しい身体障害があったが、医者から「手術しても100人に1人くらいしか成功しない。日常生活に支障がないなら、手術するにしても、もっと大きくなってからの方がいいだろう」と言われ、両親は「勤は幼い時から掌が不自由なのを気にしており、うまくいかないことを、掌のせいと考えてきたようだ。4歳の時に手術も考えたが、もし、手術して身障者のレッテルを張られたら、勤の将来に悪い結果となると判断し、そのままにした」と、積極的な治療を受けさせなかった。そのため、幼稚園ではお遊戯や頂戴のポーズもできず、周囲からからかわれても幼稚園の先生は何も対応しなかったため、非常に辛かった、と供述している。

小学生の頃は怪獣博士と呼ばれるほどだったが「クラスの人気者ではなかった」。中学時代までは学校の成績も230人中20番前後と優秀で、宮崎勤 が通っていた五日市中学校創設以来、初めて明治大学付属中野高校に合格した。

1978年、手の障害を気にし、自宅から片道2時間もかかる男子校であった明治大学付属中野高等学校へ進学するが、両親は”英語教師になるためにわざわざ遠い高校へ進学した”と勘違いしていた。同級生は、暗く目立たない少年だった、と証言している。高校時代は成績が徐々に落ち、本人は明治大学への推薦入学を希望していたが、クラスでも下から数えたほうが早い成績で、その希望は果たせなかった。

高校卒業後は実家の仕事を継ぐという条件で東京工芸大学短期大学部画像技術科に進学、現像焼付けや校正、デザインなどを学ぶ事になったのだが、在学中に十分な技術は習得できなかった。そのため就職活動はうまく行かず、結局卒業後は父親の懇願により叔父に紹介された小平市の印刷会社に就職する事となった。
しかしここでも研修で居眠りをする、仕事を命じられても返事さえしない、上司の許可も取らず帰宅する等の勤務態度の悪さから同僚とうまく行かず、3年後依頼退職されられサラリーマン生活は終わった。
その後は家業を手伝いながら同人誌を作りコミケに参加したり、ビデオサークルの会員になったりしたのだが、どれも自分勝手な性格から仲間に嫌われ、ここでも人間関係の失敗により孤立してしまう。
そして1988年8月22日に最初の犯罪を犯すのだが、こうして宮崎勤の半生を振り返ってみると、それは挫折と孤立の連続であったように思う。そしてそれは、自らが抱えた掌の障害と深く結びついている。
幼稚園では不自由な手をからかわれる日々を「恐怖だった」と述懐し、小中学校では掌の障害を気にするあまり内向的な性格となり周囲から孤立、「他人に障害がある事を知られるのではないかとの不安があり、ガールフレンドを持ちたいという気持ちがあっても、持てなかった」という供述のように他人、特に女性への不信が拭いきれず、自分の持つ障害を誰も知らない、自宅から片道2時間かかる男子校に進学する。しかしここでも学校に馴染むことができず、いじめにも合い、さらに長距離通学が重なり精神的にも肉体的にも疲弊しきってしまう。その結果成績はみるみる下がり、希望していた明治大学文学部への進学は不可能となる。
「深い挫折を味わった社会に馴染む事のできない身体の悪い男が犯罪を犯す」
こういった解釈はあまりにドラマチックすぎて、一つの物語となってしまい事実と反する可能性が高いので良くないのだが、それでも僕はその「物語」に深く感情移入してしまう。なぜなら僕もまた、宮崎勤と同じような人生を歩んできたからだ。

あまり多くの人に話してこなかったが、僕は先天的に口唇口蓋裂という障害を持って産まれた。この疾患について話すと長くなるので簡単に説明すると、口唇と口蓋、つまり上唇と上顎が裂けた状態で産まれてくる先天異常で、僕は川越の病院で産まれた直後、すぐに小川町の日赤病院へ搬送された。そしてその後は御茶ノ水にある東京医科歯科大学の歯学部附属病院で治療と手術を繰り返し受ける事になり、現在もこの病院に定期的に通院している。
この障害によって、僕は2つの問題に苦しめられる事になる。
まず1つは見た目の問題。裂けた唇を縫い合わせるわけだから、結果人間の中で一番目立つ顔の真ん中に傷跡が残る。そして鼻の形はいびつに曲がり、子供の頃はいつも同級生に「変な顔」「気持ち悪い」「不細工」と言われいじめられた。中学生、高校生になって日常の中に恋愛の要素が持ち込まれ始めるようになっても、僕は「こんな気持ち悪い顔では恋愛ゲームに参加する資格が無い」と思い、徐々に性格が暗く曲がっていった。高校生になって2回ほど鼻と唇の形成手術を行い、昔ほど唇の傷跡も歪んだ鼻も目立たなくなった。それでも子供の頃にぶつけられた言葉の傷は癒える事はなく、今でも僕は自分の顔に自信がない。
もう1つは言葉の問題。唇と共に上顎も裂けているので、縫い合わせてはいるものの、どうしてもそこから空気が漏れ、発音が不明瞭になる。子供の頃はいつも「何を言っているかわからない」と言われ、小学校高学年、中学生の頃にはあからさまに「話し方が気持ち悪い」と言われ、僕の話し方を悪意を持って極端に歪めた「モノマネ」もされた。話してもわかってもらえず、口を開けば悪意で返ってくる。そのため僕はだんだんと口数が減っていった。「ザ・ワールド・ウォント・リッスン」、世界は聞かないだろう。だったら何も話す事はない、というわけである。
その結果、学校に行かず、家で過去の犯罪記録を延々と眺める17歳ができあがった。その時の孤独、心情は、日々に疲れきった17歳の宮崎勤とどこに違いがあるのだろうか?
宮崎勤は自身の持つ障害に対してこう供述している。
「一時期自殺まで考えた事がある。理解してくれる女性はいないし、掌の障害は先天性のものだから、子供を作れば遺伝すると思った。だから一生結婚しない決心をした」
僕も全く同じことを思っていた。「こんな不幸は俺の代で終わりだ!」というわけである。10代の頃は、いかにして自分の遺伝子を絶やすかという事ばかりを考えていた。

僕と宮崎勤の共通項はもう1つある。それは「家庭環境」だ。
宮崎勤五日市町の名家の長男として生を受ける。しかし先述したように両親は共働きで産まれたばかりの長男の世話をする時間がなく、彼の祖父と知的障害を持つ子守の男性に育てられた。経済的には恵まれていても家庭環境は極めて悪く、両親は口論する事が多く、宮崎勤の世話をしていた祖父も家の外に愛人を作り、気の強い祖母はその度に激怒し、家の中には諍いが絶えなかった。また両親共に宮崎勤の持つ障害には理解を示さず「勤は幼い時から掌が不自由なのを気にしており、うまくいかないことを、掌のせいと考えてきたようだ。4歳の時に手術も考えたが、もし、手術して身障者のレッテルを張られたら、勤の将来に悪い結果となると判断し、そのままにした」とし、十分な治療を受けさせなかった。これが結果的に宮崎 勤の深い挫折と孤独、そして両親への不信の原因となっている。

僕は父子家庭で育った。シングルファザーというやつだ。僕が産まれた直後に離婚し、母親は僕の元から去った。この辺りの詳しい事情を父親は多く語らないが、原因は薄々察している(一度様々な手段を使って母親の現在の住所を突き止め、手紙を送ったが、返事は来なかった。つまり、そういう事である)。
父親は昼間働いているのでその間僕の面倒を見るものがおらず、そのため父親の両親、つまり僕の祖父と祖母を呼び寄せ、僕の世話役を要請した。そのため僕は大変な「おばあちゃんっ子」だ。
父親は休みの度に僕を色々なところへ連れて行ってくれ、それに祖母が同席する(足の悪い祖父は家で留守番をしている)。宮崎勤の家庭とは違い、障害の治療への理解も示してくれ、そういう点ではかなり恵まれた環境にあったと言ってもいい。
しかし家庭環境は、決して良好とは言い難かった。
話すと長くなるので割愛するが、父親もまた非常に複雑な家庭に育ち、そのため自分の父、つまり僕の祖父と非常に折り合いが悪い。僕の父親は気が強く、祖父も性格に問題がある人なので、口を利けば必ず喧嘩になるというわけで、僕が物心ついてから一昨年祖父が亡くなるまでの20数年間、この2人が会話をしているところをほとんど見た事がない。
そのため祖父と祖母の関係も良くなかった。2人はいつも些細な事で口喧嘩を始め、祖父が亡くなってから2年経つ今でも、祖母は祖父への文句をこぼしている。
しかし幼い頃の僕は「おとうさん」も「おばあちゃん」も「おじいちゃん」も全員平等に好きだったので、この3名(大体祖父と祖母の2名の間でだったけど)がいがみ合う光景を見る度に悲しくなった。父親があからさまに祖父の事を無視する事も悲しかった。しかし年齢を重ねるにつれて、おおよその事情が分かってきた頃になると、僕はもう諦めた。「分かり合えない人はいつまでたっても分かり合えない」という事を、身を持って知ってしまったのである。
「7人家族である宮崎家のテーブルには椅子が4つしかない。これは初めから家族全員がリビングで食事を取る事を考えておらず、家族がバラバラである事の象徴である」という話がよく語られているが、我が家のダイニングも全く同じであった。置かれたテーブルの一片が弧を描くように湾曲しているので、同時に座れるのは3人までだ。しかし我が家には父、祖父、祖母、僕の4名が暮らしている。そしてこの4名が一緒に食事を取る事はまずなかった。そのため僕は長い間「食事とは家族の各々が好きな時間に取るものだ」という認識があったので、小学校の授業で「家族全員が同じ部屋にいた時間は」という質問に対し、クラスメイトはみんな「2時間」とか「3時間」とか答えている様を見て単純に驚いたし、後に大学に入って仲良くなった友人と家族の食卓の風景の話をする度に「やっぱりうちは異常なのだ」という事を痛感した。

そういった理由から僕は「26歳になったら宮崎勤になるのだ」という思いをずっと抱いていた。異常な状態で産まれ、異常な家庭で育ち、異常な人間になってしまった僕には、きっと異常な将来が待っているだろう。僕の人生は産まれた時から失敗していたのだ……そう思っていた。

しかし結局、僕は宮崎勤になる事はなかった。

なぜかと理由を考えた時、それはとてもたくさんの理由があるのだけど、まず第一に月並みな感想になってしまうが、僕には音楽があったからではないか。文章にするととても恥ずかしいけれど、これは本当にそう思う。
いじめられていた中学校時代も、完全に周囲から孤立していた高校時代も、常に僕の隣りには音楽があった。今はこんな事になっているけれど、絶対におれはバンドを組むんだ。そして人前で演奏するんだ、という事をずっと思っていた。
「気の合う友達ってたくさんいるのさ/今は気づかないだけ」
RCサクセションのこの一節を心の支えにして、10代の頃は過ごしていた。
また、音楽に自分の感情をぶつける時、今までマイナスだと思っていた物が、実はプラスになることもある、という事もわかった。
例えば、僕が大変敬愛している、多分日本で一番好きなバンドのフロントマンは、先天的に身体が悪く、16歳から18歳の2年間を病院で過ごしている。その間5度に渡る「拷問のような」手術を受け、一度に身体に20センチも30センチもメスを入れられた。後にその入院生活を振り返り「僕の心は折れるどころかパン粉のように粉々になった」と語っている。しかしその経験に基づいた「怒りさえ忘れる絶望」「大きなものの前で泣きわめくしかできない諦め」は音楽となり、その言葉は、例えば埼玉に住む深い絶望の中にいる17歳の高校生の魂を救ってくれる事となった。そしてそれは、言葉を紡ぐ側の人間の魂も浄化する働きがあったのではないだろうか。
なぜ僕が音楽やバンドをやっているかと言えば、それはもちろん単純に音楽が好きだという事もあるけれど、それ以上に、僕のこの汚れた血液や魂を救済するための作業と、さらにもっと大風呂敷を広げる事が許されるのであれば、例えばかつての僕と同じように暗く澱んだ日々を過ごしている高校生の「ライナスの毛布」になってくれればいい、という思いもある。かつての僕がそれによって救われたように。
「『音楽の力を信じている』なんていう奴はインチキくさい」と、「正しい人生」を過ごしてきた人にはそう言われてしまうかもしれないけれど、少なくとも僕は、人生の一時的な鎮痛剤としての力が音楽にはある、と思っている。
だからいい加減な物言いを許してもらえれば、僕は宮崎勤に「幼女を絞め殺したその両手で楽器を持てば良かったのに」と言いたい。楽器じゃなくても、小説を書くためのペンでも、ゲームを作るためのキーボードでも何でもいい。少なくとも、幼女の遺体を撮影したビデオカメラで自主制作の映画を撮っていれば、このような悲劇は起こることはなかった、と僕は思う。

僕がそして宮崎勤にならなかったもう1つの理由を上げるとすれば、それはなんだかんだ言って、僕は「人に愛されてきた」からだと思う。
母親がいないという点でハンデを背負ったものの、父親からも、祖母からも、そして性格に問題のある祖父からも、だいぶ曲がった形ではあるが、人並み以上の愛情を注がれてこの年まで育ってきたのだ、と、今にして思う。
10代の頃は人間関係で散々つまづき、半ば諦めていたところもあったが、大学に入った18歳くらいの頃から急速に人生が浮上し始め、なんだかんだ言って恵まれた出会いが多くあった。それは友人関係であったり、音楽関係であったり、色々だ。言い換えれば僕は「運に恵まれていた」から宮崎勤にならなかったのかもしれない。
そして僕は24歳の時に人生観が変わる大きな出来事があり、それ以降はあまり「いつまで経っても孤独」とか「この遺伝子を根絶やしにしたい」という事を考えなくなった。なので「異常な状態」で産まれた「普通になった僕」は、少なくとも当面の間は、宮崎勤になる事はないだろう、と思う。

2013年の8月23日に僕は、宮崎勤の名前が全国に知れ渡った時の年齢と同じ26歳となった。それから3ヶ月が経つが、僕は今こうして、このブログを書いている。