009 「宮崎勤事件」と「ぼく」(いかにして僕は「ミヤザキ君」にならなかったのか)

1987年に生まれた僕でさえ、その翌年に東京と埼玉で発生し、以降犯人が逮捕されるまで(またそれ以後も)日本全国を震撼させた「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」の事は知っている。僕が小学生の頃テレビでよく放送されていた、かつて日本で起きた事件を振り返る2時間の特別番組では必ずと言っていいほど、この事件について触れていたからだ。「僕が生まれた頃、とんでもない誘拐事件が世間を騒がせていた」という事と、「宮崎勤」という名前は、当時7歳だった僕の頭の中に強く叩きこまれていた。
それから10年が経ち、僕は17歳になった。何度も何度もこのブログで書いてきたけど、17歳の頃の僕と言ったらそれはもう暗黒の日々を過ごしていて、毎日毎日孤独に両足を掴まれている状態だった。オタク趣味とサブカルチャーに耽溺し、本棚とCDラックには近所の古本屋、中古レコード店で購入した物を次々と詰め込んでいった結果、ついに収納しきれず床にまで積み上げるようになり、部屋は物で埋め尽くされていった。
その頃の僕の趣味として、過去に起きた犯罪を調べるというものがあった。インターネットにはそういったデータをまとめたサイトがいくつもあり、事件の犯人の名前を打ち込めば、その詳細はすぐにわかった。学校に行かないどころか外にもロクに出ず、ずっと部屋に篭もりっきりになり、パソコンに触り続けて気がつけば午前2時。夜更けに陰惨な事件を事細かに記述した文章を読んでいると、何やらディスプレイからニュッと手が伸びて僕の頭を鷲掴みにし、そのまま画面の中へ引きずり込まれてしまいそうな、そんな感覚に陥る事もしばしばあった。
そんな中で僕は10年ぶりくらいに「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」の詳細に触れた。前述したように、この事件に関しては過去何度もテレビで見た事があるので、いちいち調べるような事はしなかったのだが、どういうきっかけだったか忘れたけれど、改めてこの事件の記事を読み直してみよう、と思ったのだ。
そこで僕が目にしたものは、テレビでは報じられていなかったものばかりだった。僕が見た特別番組の内容は、時間の関係もあったのだろうが、主に事件の猟奇性や、犯人である宮崎勤の特異な趣味(「あの部屋」も確かこの手の番組で見た覚えがある)にばかりスポットライトが当たっていたが、そのサイトはもっと事細かに事件についての記述が掲載されており、テレビで放送されていたものに加え、宮崎勤のその生い立ち、家庭環境、事件に至るまでの時系列が書かれていた。
そのページを最後まで読み終えた時、僕はこう思った。
「これは……まるで俺じゃないか」

「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」についての詳細はもう既に色々なところで語られ尽くしているので割愛し、以下に犯人、宮崎勤の生い立ち等をWikipediaから抜粋する。

東京都西多摩郡五日市町(現あきる野市)にある地元の新聞会社を経営する、裕福な一家の長男として出生。両親は共働きで忙しかったため、産まれてまもなく、30歳ぐらいの知的障害を持つ子守りの男性を住み込みで雇い入れている。幼い勤の世話のほとんどは、この男性と祖父が行っていた。
幼い頃から手首を回せず手のひらを上に向けられない「両側先天性橈尺骨癒合症」(りょうがわせんてんせいとうしゃくこつゆごうしょう)という、当時の日本には150ほどしか症例のない珍しい身体障害があったが、医者から「手術しても100人に1人くらいしか成功しない。日常生活に支障がないなら、手術するにしても、もっと大きくなってからの方がいいだろう」と言われ、両親は「勤は幼い時から掌が不自由なのを気にしており、うまくいかないことを、掌のせいと考えてきたようだ。4歳の時に手術も考えたが、もし、手術して身障者のレッテルを張られたら、勤の将来に悪い結果となると判断し、そのままにした」と、積極的な治療を受けさせなかった。そのため、幼稚園ではお遊戯や頂戴のポーズもできず、周囲からからかわれても幼稚園の先生は何も対応しなかったため、非常に辛かった、と供述している。

小学生の頃は怪獣博士と呼ばれるほどだったが「クラスの人気者ではなかった」。中学時代までは学校の成績も230人中20番前後と優秀で、宮崎勤 が通っていた五日市中学校創設以来、初めて明治大学付属中野高校に合格した。

1978年、手の障害を気にし、自宅から片道2時間もかかる男子校であった明治大学付属中野高等学校へ進学するが、両親は”英語教師になるためにわざわざ遠い高校へ進学した”と勘違いしていた。同級生は、暗く目立たない少年だった、と証言している。高校時代は成績が徐々に落ち、本人は明治大学への推薦入学を希望していたが、クラスでも下から数えたほうが早い成績で、その希望は果たせなかった。

高校卒業後は実家の仕事を継ぐという条件で東京工芸大学短期大学部画像技術科に進学、現像焼付けや校正、デザインなどを学ぶ事になったのだが、在学中に十分な技術は習得できなかった。そのため就職活動はうまく行かず、結局卒業後は父親の懇願により叔父に紹介された小平市の印刷会社に就職する事となった。
しかしここでも研修で居眠りをする、仕事を命じられても返事さえしない、上司の許可も取らず帰宅する等の勤務態度の悪さから同僚とうまく行かず、3年後依頼退職されられサラリーマン生活は終わった。
その後は家業を手伝いながら同人誌を作りコミケに参加したり、ビデオサークルの会員になったりしたのだが、どれも自分勝手な性格から仲間に嫌われ、ここでも人間関係の失敗により孤立してしまう。
そして1988年8月22日に最初の犯罪を犯すのだが、こうして宮崎勤の半生を振り返ってみると、それは挫折と孤立の連続であったように思う。そしてそれは、自らが抱えた掌の障害と深く結びついている。
幼稚園では不自由な手をからかわれる日々を「恐怖だった」と述懐し、小中学校では掌の障害を気にするあまり内向的な性格となり周囲から孤立、「他人に障害がある事を知られるのではないかとの不安があり、ガールフレンドを持ちたいという気持ちがあっても、持てなかった」という供述のように他人、特に女性への不信が拭いきれず、自分の持つ障害を誰も知らない、自宅から片道2時間かかる男子校に進学する。しかしここでも学校に馴染むことができず、いじめにも合い、さらに長距離通学が重なり精神的にも肉体的にも疲弊しきってしまう。その結果成績はみるみる下がり、希望していた明治大学文学部への進学は不可能となる。
「深い挫折を味わった社会に馴染む事のできない身体の悪い男が犯罪を犯す」
こういった解釈はあまりにドラマチックすぎて、一つの物語となってしまい事実と反する可能性が高いので良くないのだが、それでも僕はその「物語」に深く感情移入してしまう。なぜなら僕もまた、宮崎勤と同じような人生を歩んできたからだ。

あまり多くの人に話してこなかったが、僕は先天的に口唇口蓋裂という障害を持って産まれた。この疾患について話すと長くなるので簡単に説明すると、口唇と口蓋、つまり上唇と上顎が裂けた状態で産まれてくる先天異常で、僕は川越の病院で産まれた直後、すぐに小川町の日赤病院へ搬送された。そしてその後は御茶ノ水にある東京医科歯科大学の歯学部附属病院で治療と手術を繰り返し受ける事になり、現在もこの病院に定期的に通院している。
この障害によって、僕は2つの問題に苦しめられる事になる。
まず1つは見た目の問題。裂けた唇を縫い合わせるわけだから、結果人間の中で一番目立つ顔の真ん中に傷跡が残る。そして鼻の形はいびつに曲がり、子供の頃はいつも同級生に「変な顔」「気持ち悪い」「不細工」と言われいじめられた。中学生、高校生になって日常の中に恋愛の要素が持ち込まれ始めるようになっても、僕は「こんな気持ち悪い顔では恋愛ゲームに参加する資格が無い」と思い、徐々に性格が暗く曲がっていった。高校生になって2回ほど鼻と唇の形成手術を行い、昔ほど唇の傷跡も歪んだ鼻も目立たなくなった。それでも子供の頃にぶつけられた言葉の傷は癒える事はなく、今でも僕は自分の顔に自信がない。
もう1つは言葉の問題。唇と共に上顎も裂けているので、縫い合わせてはいるものの、どうしてもそこから空気が漏れ、発音が不明瞭になる。子供の頃はいつも「何を言っているかわからない」と言われ、小学校高学年、中学生の頃にはあからさまに「話し方が気持ち悪い」と言われ、僕の話し方を悪意を持って極端に歪めた「モノマネ」もされた。話してもわかってもらえず、口を開けば悪意で返ってくる。そのため僕はだんだんと口数が減っていった。「ザ・ワールド・ウォント・リッスン」、世界は聞かないだろう。だったら何も話す事はない、というわけである。
その結果、学校に行かず、家で過去の犯罪記録を延々と眺める17歳ができあがった。その時の孤独、心情は、日々に疲れきった17歳の宮崎勤とどこに違いがあるのだろうか?
宮崎勤は自身の持つ障害に対してこう供述している。
「一時期自殺まで考えた事がある。理解してくれる女性はいないし、掌の障害は先天性のものだから、子供を作れば遺伝すると思った。だから一生結婚しない決心をした」
僕も全く同じことを思っていた。「こんな不幸は俺の代で終わりだ!」というわけである。10代の頃は、いかにして自分の遺伝子を絶やすかという事ばかりを考えていた。

僕と宮崎勤の共通項はもう1つある。それは「家庭環境」だ。
宮崎勤五日市町の名家の長男として生を受ける。しかし先述したように両親は共働きで産まれたばかりの長男の世話をする時間がなく、彼の祖父と知的障害を持つ子守の男性に育てられた。経済的には恵まれていても家庭環境は極めて悪く、両親は口論する事が多く、宮崎勤の世話をしていた祖父も家の外に愛人を作り、気の強い祖母はその度に激怒し、家の中には諍いが絶えなかった。また両親共に宮崎勤の持つ障害には理解を示さず「勤は幼い時から掌が不自由なのを気にしており、うまくいかないことを、掌のせいと考えてきたようだ。4歳の時に手術も考えたが、もし、手術して身障者のレッテルを張られたら、勤の将来に悪い結果となると判断し、そのままにした」とし、十分な治療を受けさせなかった。これが結果的に宮崎 勤の深い挫折と孤独、そして両親への不信の原因となっている。

僕は父子家庭で育った。シングルファザーというやつだ。僕が産まれた直後に離婚し、母親は僕の元から去った。この辺りの詳しい事情を父親は多く語らないが、原因は薄々察している(一度様々な手段を使って母親の現在の住所を突き止め、手紙を送ったが、返事は来なかった。つまり、そういう事である)。
父親は昼間働いているのでその間僕の面倒を見るものがおらず、そのため父親の両親、つまり僕の祖父と祖母を呼び寄せ、僕の世話役を要請した。そのため僕は大変な「おばあちゃんっ子」だ。
父親は休みの度に僕を色々なところへ連れて行ってくれ、それに祖母が同席する(足の悪い祖父は家で留守番をしている)。宮崎勤の家庭とは違い、障害の治療への理解も示してくれ、そういう点ではかなり恵まれた環境にあったと言ってもいい。
しかし家庭環境は、決して良好とは言い難かった。
話すと長くなるので割愛するが、父親もまた非常に複雑な家庭に育ち、そのため自分の父、つまり僕の祖父と非常に折り合いが悪い。僕の父親は気が強く、祖父も性格に問題がある人なので、口を利けば必ず喧嘩になるというわけで、僕が物心ついてから一昨年祖父が亡くなるまでの20数年間、この2人が会話をしているところをほとんど見た事がない。
そのため祖父と祖母の関係も良くなかった。2人はいつも些細な事で口喧嘩を始め、祖父が亡くなってから2年経つ今でも、祖母は祖父への文句をこぼしている。
しかし幼い頃の僕は「おとうさん」も「おばあちゃん」も「おじいちゃん」も全員平等に好きだったので、この3名(大体祖父と祖母の2名の間でだったけど)がいがみ合う光景を見る度に悲しくなった。父親があからさまに祖父の事を無視する事も悲しかった。しかし年齢を重ねるにつれて、おおよその事情が分かってきた頃になると、僕はもう諦めた。「分かり合えない人はいつまでたっても分かり合えない」という事を、身を持って知ってしまったのである。
「7人家族である宮崎家のテーブルには椅子が4つしかない。これは初めから家族全員がリビングで食事を取る事を考えておらず、家族がバラバラである事の象徴である」という話がよく語られているが、我が家のダイニングも全く同じであった。置かれたテーブルの一片が弧を描くように湾曲しているので、同時に座れるのは3人までだ。しかし我が家には父、祖父、祖母、僕の4名が暮らしている。そしてこの4名が一緒に食事を取る事はまずなかった。そのため僕は長い間「食事とは家族の各々が好きな時間に取るものだ」という認識があったので、小学校の授業で「家族全員が同じ部屋にいた時間は」という質問に対し、クラスメイトはみんな「2時間」とか「3時間」とか答えている様を見て単純に驚いたし、後に大学に入って仲良くなった友人と家族の食卓の風景の話をする度に「やっぱりうちは異常なのだ」という事を痛感した。

そういった理由から僕は「26歳になったら宮崎勤になるのだ」という思いをずっと抱いていた。異常な状態で産まれ、異常な家庭で育ち、異常な人間になってしまった僕には、きっと異常な将来が待っているだろう。僕の人生は産まれた時から失敗していたのだ……そう思っていた。

しかし結局、僕は宮崎勤になる事はなかった。

なぜかと理由を考えた時、それはとてもたくさんの理由があるのだけど、まず第一に月並みな感想になってしまうが、僕には音楽があったからではないか。文章にするととても恥ずかしいけれど、これは本当にそう思う。
いじめられていた中学校時代も、完全に周囲から孤立していた高校時代も、常に僕の隣りには音楽があった。今はこんな事になっているけれど、絶対におれはバンドを組むんだ。そして人前で演奏するんだ、という事をずっと思っていた。
「気の合う友達ってたくさんいるのさ/今は気づかないだけ」
RCサクセションのこの一節を心の支えにして、10代の頃は過ごしていた。
また、音楽に自分の感情をぶつける時、今までマイナスだと思っていた物が、実はプラスになることもある、という事もわかった。
例えば、僕が大変敬愛している、多分日本で一番好きなバンドのフロントマンは、先天的に身体が悪く、16歳から18歳の2年間を病院で過ごしている。その間5度に渡る「拷問のような」手術を受け、一度に身体に20センチも30センチもメスを入れられた。後にその入院生活を振り返り「僕の心は折れるどころかパン粉のように粉々になった」と語っている。しかしその経験に基づいた「怒りさえ忘れる絶望」「大きなものの前で泣きわめくしかできない諦め」は音楽となり、その言葉は、例えば埼玉に住む深い絶望の中にいる17歳の高校生の魂を救ってくれる事となった。そしてそれは、言葉を紡ぐ側の人間の魂も浄化する働きがあったのではないだろうか。
なぜ僕が音楽やバンドをやっているかと言えば、それはもちろん単純に音楽が好きだという事もあるけれど、それ以上に、僕のこの汚れた血液や魂を救済するための作業と、さらにもっと大風呂敷を広げる事が許されるのであれば、例えばかつての僕と同じように暗く澱んだ日々を過ごしている高校生の「ライナスの毛布」になってくれればいい、という思いもある。かつての僕がそれによって救われたように。
「『音楽の力を信じている』なんていう奴はインチキくさい」と、「正しい人生」を過ごしてきた人にはそう言われてしまうかもしれないけれど、少なくとも僕は、人生の一時的な鎮痛剤としての力が音楽にはある、と思っている。
だからいい加減な物言いを許してもらえれば、僕は宮崎勤に「幼女を絞め殺したその両手で楽器を持てば良かったのに」と言いたい。楽器じゃなくても、小説を書くためのペンでも、ゲームを作るためのキーボードでも何でもいい。少なくとも、幼女の遺体を撮影したビデオカメラで自主制作の映画を撮っていれば、このような悲劇は起こることはなかった、と僕は思う。

僕がそして宮崎勤にならなかったもう1つの理由を上げるとすれば、それはなんだかんだ言って、僕は「人に愛されてきた」からだと思う。
母親がいないという点でハンデを背負ったものの、父親からも、祖母からも、そして性格に問題のある祖父からも、だいぶ曲がった形ではあるが、人並み以上の愛情を注がれてこの年まで育ってきたのだ、と、今にして思う。
10代の頃は人間関係で散々つまづき、半ば諦めていたところもあったが、大学に入った18歳くらいの頃から急速に人生が浮上し始め、なんだかんだ言って恵まれた出会いが多くあった。それは友人関係であったり、音楽関係であったり、色々だ。言い換えれば僕は「運に恵まれていた」から宮崎勤にならなかったのかもしれない。
そして僕は24歳の時に人生観が変わる大きな出来事があり、それ以降はあまり「いつまで経っても孤独」とか「この遺伝子を根絶やしにしたい」という事を考えなくなった。なので「異常な状態」で産まれた「普通になった僕」は、少なくとも当面の間は、宮崎勤になる事はないだろう、と思う。

2013年の8月23日に僕は、宮崎勤の名前が全国に知れ渡った時の年齢と同じ26歳となった。それから3ヶ月が経つが、僕は今こうして、このブログを書いている。