010 僕の小規模な福満しげゆき論

こうして思い返してみると、2003年という年は実に色々な事があった。高校に入学し、早くも学校に行かなくなり、起死回生を図るためにバイト代を貯めてリッケンバッカーのベースを買ったり、けれど友達がいないからバンドを組めず、家でひたすら練習をしていたり……。ある意味この年で、僕のその後の人生が決まってしまったと言っても過言ではないだろう。そしてそんな僕に重大な影響を与えた、というか、「僕と似たような事を考えている人がいる!」と思わせた漫画家と出会ったのも2003年である。

あれは2003年の秋だったか。第一次登校拒否時代に突入していた僕は、自室にこもり朝から古本屋で買ったガロの巻頭特集の、山田花子追悼記事を読み涙していた。そして読み終わってもまだお昼。外は曇っていてからっ風がびゅうびゅう吹いている。埃で汚れた窓から外を眺めながら「一体僕はこの先どうなってしまうんだろう……?」という不安に襲われていた。どうしてこんな事になったのか、なんでこんな澱んだ日々を過ごさなければならないのか、ひとつ曲がり角、ひとつ間違えて、迷い道クネクネ。あの頃はとにかく「早く終わってくれ!」という思いでいっぱいだった。
そして再び手元のガロに視線を落とし、ふと思う。「そういえば、今ガロはどうなっているんだろう?」
90年代後半に創設者である長井勝一が亡くなり、その後休刊と復刊を繰り返しているという話は聴いていたが、その後がどうなったのかよくわからない。僕は埼玉の片田舎に住んでいたのだけれど、隣り町に出来た「日本初のアウトレットモール」の中になぜかまだ首都圏に展開を始めたばかりのヴィレッジヴァンガードがオープンして、そこの雑誌コーナーに新装版ガロが置かれているのを目にした事がある。しかし僕が中学生くらいになる頃にはヴィレッジヴァンガードは撤退し、現在進行形のサブカルチャー文化は僕の周辺から消滅した(ちなみにそのアウトレットモール自体も光の速さで衰退していき廃墟同然となり、3年ほど前に閉鎖された)。
そこでインターネットである。僕は早速パソコンで現在のガロを調べた。するとどうやら2002年頃までは辛うじて発刊を続けていたものの、2003年当時はもはやほぼ青林堂としての活動は停止していたらしい。しかしもっと調べると、当時青林堂にいた社員が青林工藝舎という新しい会社を立ち上げ、現在は「アックス」という雑誌を出版している、という事がわかった。僕はそれに興味を持ち、所沢にアックスを取り扱っている書店があるというので、電車で30分ほどかけて所沢へと向かった。
そして書店に到着。店内をうろうろしていると、雑誌コーナーの片隅にアックスの最新号が置かれていた。それを手にした僕は、まずその表紙のイラストに強い印象を持った。
線の細い内向的で神経質そうな男が階段に座ってアックスを手にしている。顔はこちらを向いており、その表情は漠然とした不安で溢れている。その表紙にはアックスという雑誌名と、「福満しげゆきの小規模な特集」という文字が書かれていた。ページを開くと巻頭には「僕の小規模な失敗 ホームレスに憧れる(前)の巻」と題された漫画が載っていた。
それが僕と福満しげゆきの出会いであった。
何はともあれ、ひとまずその漫画をざっと読んでみる事にする。内容は、色々あったけれどなんとか大学に入れた「僕」が、「大学に行けば僕にも彼女や友達ができるんだろうか?」と電車の中で期待に胸を膨らますシーンから始まる。しかし授業に全くついていけず、満員電車による通学と何を言っているのかまるでわからない授業の繰り返しの日々の中、思い描いていた夢はあっという間に粉微塵に砕け、次のページには、ネット上では比較的有名な、あの「間もなく…大学敷地内の…何か用途不明の地下みたいなところでたいはんの時間を過ごすようになった…」というナレーションと共に「僕」が薄暗い階段に座っているシーンが大ゴマで描かれている。そんな中、以前描いた漫画を送った「某大手出版社」から連絡があり、少しずつではあるが雑誌に漫画が掲載されるようになる。しかしアンケートの結果は芳しくなく、早くもちゃんとした漫画家になる事を諦め、なぜかホームレスに対する憧れが募りだす。再び満員電車に詰め込められる毎日は続き、ぎゅうぎゅうの電車から「ペッ」と吐き出された「僕」は帰路につきながらこう思う。
「みんなこんな事毎日やってるのか……?」
「世間のみんなが強いのか……僕が弱すぎるのか……」
といったシーンでこの回は終わる。8ページの作品だが、僕はこれを読み終わった時こう思った。
「僕と似たような事を考えている人がいるとは!」
多少は期待して高校に入学したものの友達はできず、次第に休みがちになり、勉強にもついて行けず、日々の電車通学に疲れきって不登校に突入した当時の僕にとって、この漫画は正に「僕の気持ちを代弁してくれている!」と思わせるものだった。
すぐさまアックスを購入し、家に帰って漫画の後に掲載されているインタビューを読む。それによるとこの「僕の小規模な失敗」は作者の自伝的な漫画のようだ。工業高校を中退し定時制高校に入り直し、どうにか大学に入学したのが今回の話らしいのだが、そのインタビューの内容も大変僕の心を打った。

高校でリアルに油まみれで「これ何に使うの?」という変なネジを作らされるわけです(笑)。「ああそうなんだ、家も金持ちでなく頭も悪かったら、どこかの工場で部品を作るしかないんだ」と16歳くらいで思い知るわけです。

学校でマンガ書くから不良よりも怒られるので、本当に自分のバリアをはってやるわけです。やがてだんだん学校にも行かなくなって図書館とかで書いてたんです。それで留年して辞めました。
(中略)
今だから面白おかしく言えますけど、その時は恐いですよ。もう終わりだと思います。

福満しげゆきが高校時代に感じていた将来に対する不安を、正にその時僕は現在進行形で思っていた。家も決して裕福ではないし、頭も悪いし、その上この不況下なので到底就職なんてできるとは思えない。

恋愛ゲームに参加できず…漫画コンクールで相手にされず…学歴コースからも脱落しちゃって……
「失敗だ……」

インタビューの最後のページに掲載されていたコマのこのセリフに、当時の僕の気持ちが全て凝縮されていた。

それから2年後、人間との接触が完全に絶たれたまま僕は高校3年生になった。その頃じわじわと盛り上がっていたmixiで「僕の小規模な失敗」が単行本になるという話を聞いた。これは買うしかない!というわけで、僕は埼玉から片道1時間位かけて単行本が取り扱われている中野の書店へと向かったのだった。
そうして手に入れた単行本を読んだ僕の第一印象は「思ったより深刻な漫画ではないのだな」というものだった。もちろん内容自体はもの凄くヘヴィで、深刻な箇所だけ抽出すればただただ暗く重いだけの漫画になっていたのだろうと思う。しかしそこを、福満しげゆき独特の笑いでただ辛いだけの漫画になる事を防いでいる。
この漫画を一言で説明しするなら「ダメな主人公がひたすらクヨクヨ悩む話」である。事あるごとに「全てがダメになる大いなる予感!」と叫び(実際は心の中で思っているだけだけど)、数少ない取り柄である漫画が描けなくなると「人には適正があるとして……たまたまどこにも何にも適応できない人間だっているのでは……それが僕だとするのなら……将来はどうなるんだ……怖い……」と怯え、「まともにやれないクセにまともでいたいと願う気持ちが強すぎるからつらいんだ……」と煩悶する。
これだけだとただの暗い漫画になってしまうが、しかし別のシーンでは、FBI心理学の本を読み「犯人の共通点、部屋が散らかし放題、女にモテない」という一文を読んで「僕だ!」とギョッとする場面や、油取り紙で顔をペタペタ拭く女の子を見て「何その紙!」と驚く場面などという、決して明るいものではなく、むしろ完全に暗く後ろ向きな笑いなのだけれども、そういったダメ人間特有の「あるある笑い」を要所要所に差し込む事によって、この漫画独特の「明るくはないけれど100%暗いわけでもない、楽しくはないけれど決して全てが悲しいわけじゃない」という雰囲気が醸し出されている。
その後紆余曲折あって金髪で頭の悪い彼女と同棲し、一念発起してどうにか就職するのだけれどもあっという間にクビに。どの仕事も長続きせず家でクヨクヨしていると彼女が「覚醒」して突然まともな大人となり仕事へ行くようになる。漫画を送った出版社からも良い返事が来て、彼女とも結婚する。そして「僕はいろいろ思った」というナレーションに続いてこういったモノローグが入る。

いろいろなことが…
あったようななかったようなこれまでだったけど…
落ち込んだりもしたけれど…
よくよく考えてみれば今までこれでよかったんだ…
……いや
むしろ幸せな人生だったのではないかな…?

「僕」は彼女改め「妻」とコタツに入りテレビを見ており、コマの左下には「終わり」と描かれている。めでたしめでたし、と思いきや、次のページをめくると「しかし人生は続く」というナレーションと共に「妻」に「仕事どーすんの、お金ないんだよ!」と怒られるシーンが始まる。
そしてまた僕のモノローグ。

なんだろう?
僕は結婚したら人生の問題が解決して
何かが完結すると思い込んでいたぞ……
バカだった……

結局漫画の持ち込みはうまくいかず、「これからどうなるんだろう……」とこぼすシーンで「僕の小規模な失敗」は完結となる。
こういった、言わば深夜ラジオ的な笑いを含んだ漫画を読み終えた後、17歳の僕は多少なりとも救われたような思いだった。この頃僕はそれこそ「僕だけが弱いのか?」と思っていたし「他の人はみんな誰も彼もうまく行ってて、失敗を繰り返しているのは僕だけなのではないか?」という思いでいっぱいだったので、この作品を読んだ事によって「似たような事を思ったり感じたりしている人は他にもいるのだ」と思い、慰め合いというわけではないが、多少なりとも気が楽になった。

その後しばらく福満しげゆきを追いかけていた。単行本が出たら買い、雑誌に漫画が掲載されたら読み、そして「僕の小規模な失敗」の続編「僕の小規模な生活」がモーニングで連載されるようになったら毎週読み、「ついに福満しげゆきがメジャーに進出した!」と一ファンであった僕は喜んだ。
しかしそれから少しして、僕はある疑惑の念に囚われるようになった。
福満しげゆきは決して僕寄りのダメ人間ではないのでは?」
「結婚もしてるし漫画家生活も順調だし……」
そして極めつけは「妻」の妊娠である。子供が出来ていよいよ父親になろうとする氏の姿を見て、僕はこう思った。
福満しげゆきリア充じゃないか!俺は騙されていた!」
それ以降、僕は「福満しげゆきはメジャーに行ってから丸くなった」「以前のようなソリッドな感覚を失った」とか、まあなんというかわかったような口を利き、僕はそれ以降「僕の小規模な生活」を読まなくなった。俗にいう「福満離れ」である。

そして今年に入っての事だ。久しぶりに実家に帰って、部屋の本棚にしまいっぱなしだった「僕の小規模な生活」の1巻と2巻を読み返して、僕は驚いた。
「全然リア充じゃないじゃねえか」
無職をこじらせて「妻」に殴られる、1年は続けられるといったコンビニのバイトの仕事が覚えられずあっという間にトンズラする、少しずつ漫画が雑誌に載るようになっても、編集者と飲みの席で余計な事をペラペラしゃべりすぎて家に帰って落ち込む……。一体これのどこが「リア充」の生活なのだろうか?生活の環境が変わったところで、とにかくひたすらクヨクヨするという氏の本質的な「ダメ人間」的な要素は全く変わっていない。そして福満漫画独特の擬音はより進化を遂げており(「妻」がコタツに刺さっている「ズボー」、それを見てイライラする「僕の」「イラー」、流れ続けるテレビから聞こえる「わははー」等)、ギャグ漫画とまでは言わないけれども、かつての暗さを残したまま面白さの精度は上がっている。
これは面白い漫画だ!と僕は考えを改め、僕は再び福満しげゆきの漫画を読むようになった。俗にいう「福満返り」である。

こうして部屋の本棚には福満しげゆきの漫画がズラリと並ぶようになったのだが、氏の作品を読んでいると、その全てに通底している「福満イズム」のようなものが朧気に見えてくる。
それはいくつかあるけれど、まずその大きな特徴として「福満しげゆきは弱者に優しい」というものがある。
だいぶ漠然としているが、まず何が弱者であるか。それは「僕の小規模な失敗」でも一貫して「僕」が持ち続けている悩みである「頭が悪い」「社会に適応できない」「女にモテない」「非力である」と言った要素を持っている人間が、福満しげゆきが定義する弱者であると思われる。
その逆に「頭がいい」「社会に溶け込める」「モテる「力が強い」」といった「強者」側の人間にはとことん冷たい。例えばアックスで連載され、数年のブランクを挟んだ後にウェブ連載で作品の完結を迎えた「生活」にはそんな福満イズムが色濃く表れている。
この作品はコンビニで働くフリーターの「オレ」、工業高校卒のニートの「僕」、謎の女子高生の「リーダー」、普通のサラリーマンである「オジさん」という、言わば福満イズムに照らし合わせれば弱者側の人間が、未成年にわいせつ行為を働いた高校教師、弱そうな中学生をカツアゲしている高校生、電車の中で騒ぐ女連れの強くて怖そうな人といった強者側の人間を、トンカチやロープ、ガムテープを使って成敗していくという話である。強者とは言い換えればマジョリティサイドと言えるし、もしくは所謂「DQN」だとも言える。そういったタイプの人間に対する怒り、憎しみ、不平や不満といった感情への回答がこの作品なのではないか。

そして「福満イズム」のもう一つの特徴といえば「組織集団への不信感」という点ではないだろうか。
例えば先ほど挙げた「生活」では、最初はその4名で細々と活動をしていたが、徐々にその規模が巨大化し、非常に規模の大きな組織となる。その結果、所謂「強者」の側である、つまり、頭が良くて、すぐに徒党を組み、女にもてて、力が強い人間が幅を利かせるようになり、あっという間に組織は腐敗する。それに対し「オレ」と「僕」は極めて小規模に反乱を起こすのだが、ここで象徴的なのが、かつて「オレ」と「僕」が救った、弱者側の人間であった少年達も組織に取り込まれた結果、いつの間にか無法を働く「強者」の側についていた、という点だ。弱者が強者に立ち向かうために一つの集団を形成し、組織としての強度を増して力をつけていく。それ自体は決して間違いではないのだが、残念ながら弱者が力を持ち強者のポジションについてしまった結果、当初抱いていた弱者の心を忘れてしまう、という事例は決して少なくない。そしてその事に対して福満しげゆきは非常に批判的である。
だから福満漫画はいつも小規模なものであるし、他の作品、例えば「僕の小規模な生活」や「うちの妻ってどうでしょう?」でも、登場人物が極端に少ない。これは例えば、かつて自分の番組のスタッフやリスナーと悪ふざけを企んでいたが、いつの間にか後輩芸人達と野球チームを結成して「主宰」の立場についた伊集院光とは正反対である。むしろどちらかと言えば、ポッドキャスト文化放送の朝4時というとんでもない時間に、小さなコミュニティ(妻子、2名のスタッフ、極たまに現れる数名の先輩や後輩の芸人)で起こった小規模な事件を題材にしたフリートークや、誰が嫌いだ彼が嫌いだといった悪口を少ないリスナー相手にまき散らしている髭男爵山田ルイ53世のスタンスに近いものがある(余談だけど、僕はポスト深夜の馬鹿力は「髭男爵 山田ルイ53世ルネッサンスラジオ」なのではないかと思っている)。
福満しげゆきの小規模な特集」に寄稿されている安部幸弘によるコラムにはこう書かれている。

だから、読者の一人として勝手ながら福満氏に望むのは、できればこれからも自信のない男の子を描き続けて欲しい、という事だ。まあだめ連みたいに「駄目でもいいんだ!」と宣言するのも選択肢の一つだが、福満漫画では多分こうなるだろう――
「そうか、駄目でもいいって思っていいんだ!……ろうか?いや、それじゃやっぱり駄目なのでは。でも潔く開き直れないって事自体、かえって駄目なのかも……」

徒党を組まず小規模に活動するという事は、肯定しあう仲間が極端に少ないという事だ。それが自信の低下に繋がりうじうじと悩む結果になるのだが、しかし徒党を組んだ途端組織は歯止めが効かず暴走し、腐敗する。その事を福満しげゆきは理解しており、なおも様々な事にクヨクヨしながら、しかし小規模に強者に対する抗議活動を続けるのだ(これは、本人は反原発の思想を掲げてはいるが、デモには「膝が痛くなりそうだからしたくないですし……」という理由で参加しないという点に端的に表れている)。

更にもう一つ「福満イズム」の特徴を上げるとしたら、それは「だけど人恋しいし一人はさみしくてつらい」という、なんとも情けないものである。
僕の小規模な失敗」でも「僕」は後の「妻」となる女の子に入れ込み、そして一度フラれるのだが、その際「いろんな理屈並べて強がっていたけど、本当は全然こらえられなくてさみしかった」と言って号泣し、その後結婚をして「僕の小規模な生活」に話が移り変わっても「例えば妻が死んだら」という森田童子みたいな妄想を繰り広げては「一人では生きていけない!」という結論に到達して震える。
集団に馴染めないし不信感すら抱いているが、かといってひとりぼっちでは生きていけない。このどちらにも振りきれる事ができない情けなさが、福満しげゆきの作品の大きな魅力の一つであると言える。

以上の点を踏まえると「福満しげゆきリア充だ!」などといった事はとんでもない思い違いであると言える。それでもよく「福満なんてあんなのファッション非モテだから」とか「童貞パフォーマンス乙」などといった言葉を嘲笑混じりに投げつけてくる奴がいるが、大体そういう奴は頭も良くて仕事もできてお金も持ってて半同棲中の彼女と週3ペースでセックスをしてるようなゴミ人間なので、縄で吊るしあげても全く問題ない。ほんとなんなんだよあいつら。
現在「僕の小規模な生活」は休載中だが、「うちの妻ってどうでしょう?」が漫画アクションで連載されている。そこでも妻と2名の我が子と「僕」が織りなす小規模な日常漫画が描かれているが、僕としてはこのまま、変に規模を拡大したり、権力を振りかざすのではなく、小規模なまま強者に噛み付いていってほしいと思う。

ところで僕は「僕の小規模な失敗」を購入した直後、中野のタコシェで行われたサイン会に行った事がある。僕は福満しげゆきとは、氏の作品に登場するような、線の細い神経質でナイーブそうな人物像を想像していたのだが、実際にお会いしてみると、当時頭は丸刈りで無精髭を生やしており、なんというか「刑務所の中」といった出で立ちの強そうな人だった。しかし言葉少なに話す口調は柔らかく、こういうところに氏の作品にも通じる「優しさ」が表れているなと思った。
ちなみにその時僕は恐ろしい事に、髪を肩まで伸ばした上に髭を生やしているという「才能のないはっぴいえんど時代の細野晴臣」みたいなとんでもない風貌をしていた。そんな僕を見た福満氏は「髭仲間ですね」と言って小さく笑っていたのだが、僕はその時の事を今でもよく覚えている。
そこでサインしてもらった単行本は、僕の家宝と言っても過言ではない。