004 あの頃アニソンを聴いていた僕の気持ちとそれに伴う謎

今でも漫画やアニメはよく見るし、最近は家にテレビとレコーダーがやってきた事によって、とりあえず放送しているアニメは大方録画し、まあそのうちの大半は見ないのだけど、その中から面白そうな物をピックアップして毎週見る、という生活をしている。しかし中学生から高校生の頃にかけては、今よりどっぷり蔑称としての「オタク」だったので、週に10本くらいはアニメを見ていたし、声優がパーソナリティを務めるラジオも聞いていた。そのおかげでアニソンには詳しくなり、久米田康治言うところの「ダメ絶対音感」も身につき、予備知識無しで見たアニメでも「お、このキャラクターの声は堀江由衣だな」とかわかるようになった。よくある話である。
高校生になってからは自分のパソコンを買い与えられ、今で言うネットラジオのはしりのような、一日中アニソンや声優ソング、その頃勃興してきた「電波ソング」と言われる曲などを流すサイトを見つけた。またその辺りから神経がおかしくなり、学校に行かなくなってきたので、結果延々と暗い部屋に閉じこもり、当時人気を博していたI'veとかfeel、桃井はることいった人々の曲を聴き続けるという地獄のような日々を過ごしていた。二度とあの頃には戻りたくない。
さて、そんな暮らしをしていると、今まで何気なく聴いていたアニソンやら電波ソングを耳にしているうちに、だんだんと暗い感情が芽生えるようになってくる。つまり「ああ、俺の人生にこの歌詞のような出来事は一生起きる事はないんだろうな」という思いである。今はどうだかわからないけれど、2000年代前半のアニソンや声優ソング、電波ソングといった曲の歌詞の大半は、主人公である「私」あるいは「僕」が、恋人関係にある、もしくは淡い恋心を抱いている「君」への感情を歌ったものであった。やれ君が好きだの、やれこのドキドキがだの、身も蓋もない言い方をしてしまえば、どこにでもあるようなラブソングである。
高校時代の頃の僕と言ったら、今に輪をかけてヒドいもので、色恋沙汰はおろか友達すらいなかったので、学校に行って誰とも口を利かずに家に帰るというのが当たり前の暮らしをしていた。3年間無人島に隔離されていたようなものだ。
そんな状態で、愛がどうだの恋がどうだのという歌詞の曲を延々と聴き続けているとどうなるかというと、「世の若者たちが恋愛を楽しみ海へ行ったり観覧車に乗ったりしてちゅっちゅしているというのに、僕は延々と新座の食品工場でおにぎりを握り続けるアルバイトをしているだけ!」と、まるで全世界から孤立したような気分になり、神経症は悪化し、日常会話もおぼつかなくなり、しまいには「道行く人々が俺を笑っている!今電信柱が俺をバカにした!」と被害妄想に囚われ、結果ますます部屋から出なくなるという、とんでもない負のサイクルに巻き込まれてしまうのである。
例えば当時どんな曲を聴いていたかというと、こんな曲である。

前者のKOTOKO「Cream+Mint」の歌詞を抜粋する。

ねえ 君が大嫌い 切なくさせるから
誰より近い場所で あくびをしたいのに

ねえ 恋は 甘くて苦いものなんだね
真っ白なカップの中 二人はすれ違い

後者の田村ゆかり「A Day Of Little Girl〜姫とウサギとおしゃべりこねこ」の歌詞はこうだ。

めぐる めぐる 夜空に
気持ち 全部 はじけてる
そっと そっと 届くといいな
まわる まわる 景色に
秘密 全部 ちりばめて
君に あげる 気づいて欲しいな

前者はまあよくある話で、主人公は「君」に対して恋心を抱いているのだけれど、「君」は「あの子」に気を惹かれていて、主人公は煩悶する。けれど最終的には主人公と「君」は手をつないで「真っ白なカップの中 二人は溶けてゆく」というわけだ。
後者は「不思議の国のアリス」をモチーフにした少女趣味あふれる歌詞で、図書館の本に吸い込まれ、おしゃべり猫や小さなうさぎも現れ、そんな景色に秘密を散りばめて「君」にあげるよ、という、なんともメルヘン過剰な歌詞である。
今この二曲を聴いても別になんとも思わないのだけれど、17歳の僕は、例えば「Cream+Mint」を聴いて「俺に『ねえ君が大好き』なんて言ってくれる子なんていない!俺の近くであくびをしたいなんて思ってくれる子は現れない!これから先も!ずっと!一生!」とわめきちらし、「A Day Of Little Girl〜姫とウサギとおしゃべりこねこ」を聴けば「俺に秘密をくれる女の子なんて現れない!そもそも俺のこのトラックに踏み潰されたじゃがいもみたいなツラで何が『小さなうさぎ 耳打ちしてるよ さあこの道を急ごう』だ!いい加減にしろ!」とでんぐり返る。つまり、17歳の頃の僕は、孤独と非モテと顔面の悪さに起因するコンプレックスが入り混じってめちゃくちゃになっていたので、こういう過剰に装飾された世界を目の当たりにしてしまうと、完全に劣等感を刺激され、何がなんだかわからなくなってしまうのである。
そもそもあの頃の僕にとって「おしゃべり猫」だの「図書室の本」だの「光の森」だのといったメルヘンなキーワードは月より遠い存在であって、どちらかと言うと「早朝のゴミ捨て場に集まるカラス」とか「カビ臭い古本屋」とか「足を取られたら最後の底なし沼」といった単語の方が身近なものだった。当時のアニソンの歌詞を書いていた人も、こういうキーワードを取り入れてくれれば、僕も神経症が悪化する事はなかったのに。間違いなく売れないけど。
余談だけど、この頃僕は有名エロゲーメーカー「Key」が出した新作の全年齢対応ゲーム「CLANNAD」に手を出した。「Kanon」「Air」の二作はやっていたし、ちょうどこの頃延期に延期を重ねてようやく発売したので、これはやっておかねばと確か発売日に買ったのだけれど、これが大間違いだった。ゲームの舞台は坂の上の高校。そこで主人公は様々な女の子と出会い、時に友人との会話も楽しみつつ、部活に恋愛とこなしていくというのがざっくりとしたストーリーなんだけれども、この頃僕は学校もロクに行かず、もちろん部活もやっておらず(吹奏楽部には入っていたけれど三ヶ月で辞めた)、恋愛どころか雑談を楽しむ友人すらいないような状況だったので、つまりこの「CLANNAD」のメインの三本柱となる「学校」「友情」「恋愛」のどの要素も満たしていなかった。それだけでゲームをやらなくなるには十分だったのだけれど、せっかく買った手前、劣等感を刺激されながらも無理やりゲームをプレイしていた。けれどある時、ゲームを終え、パソコンの電源を切った直後、真っ暗になったディスプレイに反射して映った僕のメチャクチャな顔を思いっ切り見てしまい、それ以降このゲームをプレイするのは諦めた。これ以上やっていたら自殺してしまいそうになったからだ。
そんな事をやっているうちに、だんだんとオタク文化から足が遠のき始めた。きらびやかな世界のエロゲーやギャルゲー、深夜アニメより、古くなって黄ばんだ本の中でじっとりと描かれる大槻ケンヂの小説や山田花子の漫画の方がしっくり来るようになり、アニソン等を聴かなくなった代わりにプログレ、フォーク、ナゴムレコードにトランスレコードといった方面の物を前にも増してモリモリ聴くようになり、ラジオもアニラジが多く放送されている文化放送ではなく、TBSラジオにチャンネルを合わせ毎週月曜の深夜には伊集院光のラジオを聴くようになった。
つまりオタク文化から脱し、今度はサブカル文化にどっぷり浸かるという、沼から這い出たと思ったら今度はまだ別の沼に突入するという自体になってしまったのだけれど、まあひとまずそれで精神的均衡は保つ事ができたので良しとしよう。

で、あれから10年近い時が過ぎた。現在26歳である。さすがにいい大人なので、この歳になってアニソンを聴いて「この歌詞は俺を世界から排斥しようとしている!」とわめくような事はなくなったし、今では「まあこれはこれ」としてそういった音楽も聴けるようになった。かつて僕の劣等感をこれでもかとくすぐった数々の曲もである。
そんな中、不思議な事が一つある。それは、僕のようにパッとしない学生時代を過ごし、そんな中細々とアニソンなどを聴いていたオタク趣味を持つ同年代の友人に、上記の話をしても、誰一人頷いてくれないのである。
「高校生の時とかさ、アニソンの『君が大好き〜』みたいな曲を聴いてるうちに死にたくなったよね」
もちろん友人は「あるある!」と言ってくれるに違いないと思ったのだけれど、返ってきた言葉は「ねーよ」だった。そのショックに愕然としながら、他の友人に話してみても、みんな似たような事を言うばかり。その上インターネットで「アニソン 鬱になる」「アニソン 聴く 死にたい」「アニソン 誰か 助けて」でぐぐってみても、全く思ったような記事がヒットしない。
これはどういう事なのか。つまり、アニソンとかの曲を聴いて暗い気持ちになり世の中を憎んだり神を恨んだりしているのは僕だけで、世の中の大多数の人間は、普通にアニソンの歌詞をそのままに受け入れて楽しんでいたという事なのだろうか。
いや、そんなバカな!と僕は思う。僕は中学高校時代、声優のラジオの公開録音とか、無料のインストアライブとかによく行ったりしたけど、その会場で見かけた人々と言ったら、まあ僕が言えた立場ではないけれど、外見的には実に悲惨な人々が多かった。今みたいにオタクをファッションの一部と捉えた前髪を斜めに切ってツーブロックにしたテニスサークルとオタクサークルを掛け持ちしてるような鼻持ちならないクソ大学生(週末はアニソンDJをやってコスプレイヤーの彼女がいる。ふざけやがって)みたいな奴は一人もおらず、いるのは主にチェックのシャツをジーパンにインしてるような冴えない男とか、身体が縦にも横にも広いのにやたらヒラヒラした服を着るもんだから更に体積が増して見える女とか、床屋で切った頭髪が中途半端に伸びてボサボサになり、眉毛の手入れをするという概念がないので目の上に海苔を貼ったようなごんぶと眉毛が原因で塾では「ゲジゲジ」というあだ名を付けられていじめられている中学生とか、まあこれは僕の事なんだけれど、そんな奴らばっかりで、彼ら彼女らがとても人並みの青春を過ごしているとは思えない。そんな人々がなぜ、愛がなんだ恋がなんだ、君が好きで会いたいけど会えないみたいな歌詞を、平気な顔をして聴いていられるのだろうか。もはやただの悪口になってきたけど、僕はこの点が本当に不思議でならない。
この謎に関しては、福満しげゆき僕の小規模な失敗」の作中のセリフ「世間のみんなが強いのか……僕が弱すぎるのか……」という言葉を持って、ひとまず自分を納得させてはいるんだけれども、それにしても腑に落ちない。
2000年代前半、まだオタクの社会的な地位が圧倒的に低かった頃、そんな中で冴えない学生生活を過ごしながらもアニソンを聴いていた人の意見を待つ。